永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」坐禅すれば自然に好くなるなり2 】

 
ここで道元禅師が言っている「能く成る」とか「好くなる」というのは、具体的にどういうことを指しているのだろうか?水野先生はそのまま「よくなる」とか「立派になる」とさらりと訳しておられるが、われわれとしては、それでわかったつもりになってしまってはいけないのではないだろうか。

もう一鍬掘り下げて、われわれが禅僧として「好くなる」というのは、いったいどうなることなのかをさらに問わなければならない。

それが、いわば修行の方向性、オリエンテーションに関わる非常に重要で本質的な問題だからである。

しかもその「好さ」というのは、坐禅していると、「生まれつきのするどいのも鈍いのも、賢いのも愚かなのも」そういうこととは一切関係なしに、「自然に好くなる」ような、そういう特質をもった「好さ」なのである。

このお話しをされている時の道元禅師の念頭には、個人の才覚や聡明さに関わらず、坐禅をしているとおのずからに培われてくるような「好さ」が思い浮かべられていたはずだが、それはどのような内実をもつものだったのだろうか。


 曹洞宗では伝統的に「只管」とか「無所得無所悟」、「修証一如」ということが重んじられている。

それは他の仏教伝統ではあまり強調されることのない、ある意味で大変ユニークな主張である。

わたしはそこに大いなる意義と深さを感じ、その門流に属していることに喜びと誇りを感じている者の一人である。

日本の内外で、他の仏教伝統に属する僧侶や修行者に会って話してみても、そのことへの確信はますます強くなりこそすれ、弱まることはまったくなかった。

しかしその反面、それらが単なるスローガン、あるいは決まり文句に堕して、とにかく修行さえしていればいいのだ、とか修行において得るものや悟るものが一切あってはならないといった、あまりにも浅く平板な理解にとどまっていることが多いように思われる。

そしてそのせいで「修行の深まり」ということすら論じてはいけないかのような雰囲気が醸し出されているようなことさえあるのではないだろうか?


しかし、先ほど引用した『正法眼蔵随聞記』の中の一節で、道元禅師ははっきりと「坐禅すれば好くなる」という言い方で、修行に伴う変容あるいは修行の果実について触れておられるのである。

わたしは安泰寺で『正法眼蔵随聞記』を同室の先輩僧の方と一緒に初めて読んだ時から、この「好くなる」という表現が気になって仕方がなかった。

坐禅をしていくと確かに「好くなる」という変容が起こるのである。

そして坐禅である以上そういうことが起こらなければならない。

しかし、よく誤解されているように、その変容自体を目標に掲げてそれを直接に目指して、変容を「自(みずか)ら」の手で起こそうとして意識的に一生懸命頑張るというのではない。

坐禅をしていると本人の意識を越えたところで何らかのプロセスが進行して「自(おの)ずから」変容が起きるのである。

「自ら」と「自ずから」、「起こす」と「起きる」、字面の上ではほんの少しの違いだが、実態は大いに違っている。

この微妙な違いを軽視しないことが大事なのである。

「毫釐(ごうり)も差あれば天地はるかに隔たる」と言われるのはそのためだ。


わたしはこの辺の道理を説明するとき、たとえとしてしばしば「睡眠」を引き合いに出す。

わたしが習っている野口整体では、睡眠が果たす役割をとても重視しており、「最高の医者は睡眠である」という立場に立っている。

野口整体で行う、さまざまな手技操法もそれによって具合の悪いところを「治療する」のではなく、質の良い睡眠が訪れるために必要な最小限の調整をしているだけだと言われる。

健康になる最後の仕上げは、本人のとる睡眠がやってくれるのでそれに任せるのだ。

それがその人を一番元気にする道なのである。

元気に溌剌(はつらつ)と生活するためには、日々ぐっすりと深く眠ることが必要だ。

たとえ病気になっても、ケガをしても、よく眠れていれば回復が早い。

反対に、睡眠不足が続いたり、睡眠の質が悪い状態が長く続くと体を壊しやすい。

場合によっては、思わぬ病気を引き起すこともある。

たかが眠りと、くれぐれも侮ってはいけないのである。

そのような重要で奥深い働きを持つ睡眠だが、睡眠中にいったいどのようなことが起こっているのか、睡眠が「最高の回復剤」と言われるような働きをなぜ果たすことができるのか、われわれにはまだ全然わかっていない。

わたしが面白いと思っているのは、睡眠のメカニズムを全く知らないでもちゃんと寝さえすれば、起こるべきことが自然に起こって、睡眠としての任務が全うされるということだ。

もう一つは、そこに日中働き続けている「自分」というものが介在していないということだ。

その自分そのものが一時的に「休む」ということが睡眠に他ならない。

この二つの点で「睡眠」は「坐禅」と共通している。

坐禅も心意識を休息させて、身体の自然な働きに任せているし、坐禅の中で身心に何が起きているかを知らなくても、ちゃんと坐禅が坐禅になっていればその功徳が残りなく現れるからだ。

坐禅は無明という眠りから覚める目覚め(覚)に関わることなのに、それについて語るのに睡眠を引き合いに出すとわかりやすいというのは考えてみれば不思議な話だ。

 

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋