永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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  わたしは高校生のころ、数学者の岡潔(一九〇一~一九七八 多変数解析函数論に関する世界的業績で知られる。文化勲章受賞)の本を熱心に読んでいた時期があった。

『春宵十話』、『春風夏雨』といった彼の岡潔エッセイを纏めた本である。

そのとき読んでいた文章の中には仏教や『正法眼蔵』のことなども確かに出てきていたはずなのだが、当時まだ理科系志望の高校生だったわたしには仏教関係のことにはあまりピンと感じるところがなく、記憶の片隅にとどまるのみだった。

当時は岡が語る自分の 生い立ちや数学上の発見のことの方に関心があったからだ。

それからだいぶ後に僧侶になってから、んだ岡潔の文章が心によみがえって来て、再びかれのエッセイを熱心に読み返す時期があった。

アメリカの禅堂に住み始めてまもなくのことである。

そのときは仏教関係、特にかれの正法眼蔵についての議論やかれと浄土宗の僧侶山崎弁栄尊者の光明主義とのつながりなどに興味をもって読んだのだった。 

先日、別の件でインターネットを検索していたら、岡潔が「人には心が二つある」という話題でおこなった講演の記録がたまたまヒットした。

このところわたしは、この連載での目下のテーマである「チョイスレス・アウェアネス」に関連して仏教における「心の二相論」という問題を考えていたので、まさにグッドタイミング。

「おっ、これは面白そうだぞ!?」と直感して興味を抱き、さっそく読んでみた。そこにはこんなことが書いてあった。 

「人には心が二つある。大脳生理学とか、それから心理学とかが対象としている心を第一の心と呼ぶことにします。この心は大脳前頭葉に宿っている。この心は私と云うものを入れなければ動かない。その有様は、私は愛する、私は憎む、私はうれしい、私は悲しい、私は意欲する、それともう一つ私は理性する。この理性と云う知力は自から輝いている知力ではなくて、私は理性する、つまり人がボタンを押さなければその人に向って輝かない知力です。だから私は理性するとなる。これ非常に大事なことです。それからこの心のわかり方は必ず意識を通す。ギリシャ人や欧米人、主としてギリシャ人や欧米人を指して西洋人と云うことにしますが、西洋人は、ギリシャや欧米の文献をどんなに調べてみても、第一の心以外を知ったと云う痕跡は見当らない。だから西洋人は第一の心のあることしか知らないのだと思う。ところが人には第二の心があります。この心は大脳頭頂葉に宿っている。さっきも宿っていると云いましたが、宿っていると云うと中心がそこにあると云う意味です。この心は無私です。無私とはどう云う意味かと云いますと、私と云うものを入れなくても働く。又私と云うものを押し込もうと思っても入らない。それが無私。それからこの心のわかり方は意識を通さない。直下にわかる。東洋人はほのかにではあるが、この第二の心のあることを知っていす。......」 

これはある意味で極論かもしれないが、岡のこの「西洋人は第一の心のあることしか知らない」とい う指摘は当たっているのではないかと思う。

わたしがかつて西洋的な心理学を学んでいたとき、何か根本的なところで満たされないものを感じていたこととつながるものがあるような気がするのだ。

おそらく当時のわたしに物足りないものとして感じられていたのは、心理学がここで言われている「第一の心」しか問題にしていないという点だったのだろう。

「そこで扱われている程度の浅い心しか心理学が問題にしていないのなら、そういう心理学では自分のことがほんとうにわかるということもないだろうし、俺みたいな人間は救われないだろうな」という漠然としたあきらめのような感触があったのだ。

だから自分がだんだん主流の科学的心理学への興味を失っていき、深層心理学や、東洋医学などに惹かれていったのも自然の成り行きだった。

結局、わたしは心理学を去って、第二の心を真正面からとりあげていると岡が認める仏教に道を求めることになったのだが、それもある意味で必然の展開だったのだろう。

わたしは、後にアメリカにわたりそこで仏教を学んでいる多くの人たちに出会ったのだが、かれらのストレートな熱心さには感心はするものの、そこに何か大事なものが欠けているのではないかという感じがだんだん強くなっていった。

それも今から振り返ると、実はかれらの発想の中にこの「第一の心」しかないということが関わっていたのかもしれない。

仏教や坐禅は第一の心ではなく、第二の心で学び、また実践されるべきものであるのに、かれらは第一の心で仏教を一生懸命に理解し、坐禅に取り組もうとしていたのではないか?

もしかしたら、このそもそもの出発点における間違いが多くの誤解や混乱を生んでいたのではないか?

欧米で「マインドフルネス運動」と呼ばれるほどの隆盛を背景にして、現今日本においても流行しつつ ある「マインドフルネス」に対して、わたしが手放しで歓迎できない感じがしているのも、そこでいう 「マインド」が、他ならぬ岡の言う「第一の心」としてしか理解されていないのではないかと思うからだ。

坐禅と同じように、マインドフルネスもまた第二の心で理解され実践されるべきものだとすれば、第一の心だけでマインドフルになろうというのは、あたかも水をバターに変えようとするように、苦労のみ多くて実りの少ない企てと言わなければなるまい。

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋