永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」八正道論(2)―仏道修行は正見から始まる-3】

 

仏教にはそういう螺旋的円環的プロセスのモデルが多いように思われる。

釈尊はどうもそういう思考法を得意とし ていたふしがある。

始まりから直線的に進んで、終わりで切れてしまうような線分的モデルではなく、終わりがまた始まりに帰っていくような螺旋的モデルによる思考。

縁起という仏教の基本的立場もまた、そういう円環的プロセスに親近的なヴィジョンだし、八正道が含まれている四聖諦も、
苦↓集↓滅↓道↓苦 ↓...というふうに円環的プロセスとして理解することができるだろう。

道元禅師も『正法眼蔵行持 上』の冒頭で「仏祖の大道、かならず無上の行持あり。

道環して断絶せず、発心・修行・菩提・涅槃、 しばらくの間隙(けんぎゃく)あらず、行持道環なり」と言って、

修行を環(リング)のイメージで修 行をとらえている。

仏教は慧に始まり、慧がどこまでも螺旋的に深まり成長し続ける慧の宗教なのである。 

では仏教における正見、正しいヴィジョンとはどのようなものなのだろうか?

それはやはり今引用した 道元禅師のいう「吾我を離れる」ということと関わっている。

わたしはここでは「ヴィジョン」という 言葉をわれわれに自分や世界が普通にどう見えているか、どう感じられているか、人生というものがど のようなものだと考えられているか、といった生きる上での大前提、そもそもの枠組、パラダイムといっ た意味合いで使っている。

われわれの通常のヴィジョンがどのようなものかと言えば、まず独立した個 としての自分がいて(それを「わたし」とか「自分」と呼んでいる)、その自分の周囲に自分とは関係、 つながりのないいろいろな物や人がばらばらに孤立的に存在している(そういう自分の外部に存在する個物、個人の総体を「世界」と呼んでいる)ように見えている。

そして自分の感覚器官とそのような、外部の物や者とが触れることで知覚や認識が立ち上がっているように感じられている。

そこではあくまでも自分は知覚や認識の主体(主観)であり、物や者はそれとは独立に存在する客体(客観)であると考えられている。

このようなヴィジョンは、われわれにとってはあまりにも当然で疑問の余地もないことなので、それがヴィジョンであると言われること自体が奇異に感じられるほどである。

「いやそれは、ヴィジョンなんてものじゃなくて、実際にそうなんでしょう?」と言いたくなるだろう。

しかし、 自分を中心としてそれと世界とが分断、分離する形で相対立しているという、ヴィジョンとしてわれわれの意識にものぼらないほど、われわれと一体化している、この自己中心的ヴィジョンは、仏教から見るとれっきとしたヴィジョンであり、しかも乗り越えられるべき誤ったヴィジョンなのだ。

それを「吾 我のヴィジョン」と呼んでもよい。 

正見はこのわれわれの通常のヴィジョンを虚構、幻想、仮構であると見破ったところに成立している。 

だから正見はわれわれには必然的にカウンターインテュイティブなものに思える。

自己中心的な分断・ 分離の常識的ヴィジョンに対して、それは関係性、つながりのヴィジョンである。

固定的で実体的な「わたし」という感じ(thesenseof‵‵I”)に固執し、そこに立って自他をバラバラに分離するのではなく、 自と他とは区別はあってもそれは分断・分離ではなく、内的につながり合い融合して存在しているという縁起のヴィジョンなのだ。

ここで此岸・彼岸の喩をまた引き合いに出すと、此岸とは分離・分断のヴィジョンで生きている世界であり、そのことによってさまざまな苦しみや悩みが引き起こされている。

われわれはこのヴィジョンを変えることなく(そのヴィジョンそのものが、苦悩の根本原因であることを全く知らないからである)、
そのヴィジョンを持ったまま苦しみや悩みの解決法をあれやこれやと試みているが、いずれも一時的な気休めにしかならず、ほんとうの解決からはほど遠い。

こうして苦しみの連鎖が続いていく。

しかし、ここに新しい、それとはまったく異なるヴィジョンが生まれる。

それが彼岸 であり、関係性、つながりのヴィジョンである。

これが正見の意味するところだとわたしは考えている。

そして、正思とは「、よし、何があろうとこの岸を去ってあの岸へと渡っていこう!」と「ハートに灯 がつく」ことだ。

此岸のヴィジョンに導かれる実践はすべて「自己中心性」という性質を付与されてい る。

坐禅ですらこの古いヴィジョンのもとに行われることがある『。普勧坐禅儀』に「作仏を図ることなかれ」という一文があるが、これは固定的で実体的な「わたし」が坐禅によって「仏」になろうとすることを戒めているのだと理解することができる。

しかし、仏とはそういう「わたし」の殻が脱落 した人のことを言うのであるから、分離した「わたし」というヴィジョンのまま作仏を図って坐禅すればするほど仏から遠ざかることになる。

それはまさに「水をかき混ぜてバターにしようとする」ような間違いだ。

『普勧坐禅儀』の冒頭にある「道本円通」は正見の一句である。

その短い言葉で坐禅が 「あらゆるものとの本来的つながり」を基礎にした営みであることが端的に表現されている。

だから、 坐禅において起きていることはすべて、彼岸のヴィジョン、つまりつながり、関係性へと向かう枠組みの中で理解されなければならない。

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋