永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。
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【「只管打坐」坐禅修行のスペクトル~課題中心からハート中心へ3 】
ここでは-centered(~に中心をおいた)という表現でそろえたいので、前回task-orientedと言ったものをtask-centered(課題中心的)と言い換えさせていただく。
意味合いとしては、それほど大きな違いはないはずだ。
さて、左端にtask-centered、右端にheart-centeredと置いた坐禅修行のスペクトルを想定してみる。
わたしの坐禅がまずは、task-centeredな営みとして始まったことは間違いない。
そもそも、わたしが坐禅に近づいたのも自分の抱えている問題(丘宗潭老師が「どうでもいいじゃないか、ウフフフ」と不気味に笑いとばした「わたしの一大事」。
前回の「雑考」参照)をなんとか解決してスッキリしようと思ってのことだった。
前回述べたfix a problem(問題があるからそれを解決しよう)という、ある意味きわめて合理的な考え方がそこにはあったし、そのために坐禅が役に立ちそうだという目算もあった。
そういうわたしが「坐禅はこうするものだ」と教えられて、そのまま素直に坐禅に取り組めば当然の成り行きとして、坐禅としてやるべき仕事(task)、たとえば特定の姿勢を作り、特定の呼吸をして、特定の心理状態を現出させるといったことをいかに卒なく間違いなくやるか、いかに早くそれらの課題(task)を達成するかということに心を砕くことになる。
task centeredな在り方というのは、たとえば、少しでもいい成績を取ることを目指す学校での勉強や、志望の大学に首尾よく合格することを目指す、受験勉強の時のメンタリティと同じようなものである。
そこでは成果や効率が最優先事項になっているし、どれくらい達成されたかが、数値のようなはっきりした形で評定されるようになっている。
それと同じように、坐禅もまた自分の人生上の諸問題の解決や、悟りの獲得を目指して取り組む、task-centeredな文脈や方向性において行われることがあり得るのである。
しかし、それではまったく的外れな坐禅、もっとはっきり言えば、坐禅とは呼べない別の代物(道元禅師はそれを「三界の法」とか「習禅」と呼んだ) になってしまう。
宗門でしばしば強調されている「無所得無所悟」というフレーズは「所得」や「悟」そのものを否定しているというよりは、「所得」や「悟」を目指して、つまりそれを手に入れることをtaskにして坐禅に励むその態度、メンタリティを批判するための教えだとわたしは理解している。
有所得の心、つまりtask-centeredでは坐禅が坐禅にならないということだ。
そのようなメンタリティで坐禅をしていると、そこで起きている現象のすべてが、taskに照らして是非、善悪、好悪といった尺度で常に測られることになる。
それはたまたまそうなるというのではなく、task-centeredな態度から必然的に生み出されてくる不可避的な帰結なのである。
そのせいで、坐禅が「是、善、好」を引き寄せ、「非、悪(あく)、悪(にくむ)」を遠ざけようとするもがき、あがき、悪戦苦闘の作業になり、安楽の法門どころか凄惨な戦場のごとき様相を呈することになる。
「自分が坐禅をうまくできているかどうか」ということに熱心であれば熱心であるほど、あるべき理想の坐禅と現実の坐禅の実際とのズレ、ギャップを見せつけられて、どんどん落ち込む(「俺には坐禅なんか無理なんだ」、「俺は坐禅に向いていない」「坐禅は難しい」)か、逆に自分をさらに励まして(「まだまだ俺の努力が足りないからだ」、「もっと頑張ろう」、「いつかきっとうまくできるようになるはずだ」)、この坐禅という名のバトルにますますのめり込んでいく。
そして、それが「修行の難しさ」だとか「修行への熱意」だと解釈されることが多い。
しかし、ここで『普勧坐禅儀』を読み返してみよう。
そこにははっきりと「善悪を思わず、是非を管すること莫れ。心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作仏を図ること莫れ」と示されている。
ここを読むだけでも、坐禅がtask-centeredな営みではないことは明白である。
善悪を思い、是非を管しているときの心(task-centeredの心)は、思い、管している主観と善悪や是非という価値判断が付与された客観の二つに分裂している。
そして主観としての「わたし」が、taskの名のもとに客観である何かに働きかけようとしている。
これが心意識の運転であり、念想観の測量と呼ばれている活動だ。
普段、目を覚まして活動しているときのわれわれはそういうモードですべてを行っていると言っていいだろう。
しかし、ここで言われているのは、坐禅をそのモードの延長でやってはいけないということだ。
そこには、それならtask-centeredを止めなければならないと思って、今度はそのことをtaskにしてもいけないということも、含まれていることを忘れてはならない。
task-centeredな心は、自分を否定することすらtaskに組み入れて生き延びようとする狡猾さ、しぶとさを備えている。
task-centeredな構えが解ける、脱落するということは、そういうあり方を相手取ってそれを変えよう、なくしてしまおうとする努力の結果としてではなく、むしろその逆でそのようなあり方をそのまま受容し、思いやりのある注意(caring attention)を注ぐという、ハート(つながり愛する働き。
区別し考える働きであるマインドとは区別する)に由来する、heart-centeredなアプローチで初めて起こるのである。
スペクトルの右端に置いた、heart-centeredの観点から坐禅を検討するつもりであったが、すでに紙面が尽きたのでそれは次回に持ち越さねばならない。
『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋