永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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では、五蓋の最初にあげられている貪欲蓋の検討に移ろう。

これからの考察に当たっては、南方仏教の伝統においてきわめて重要な位置を占めている『大念処経(マハーサティーパッターナ・スッタ)』が 参考になる。

この経典には(1)身の観察(身随観)、(2)受(感覚)の観察(受随観)、(3) 心の観察(心随観)、(4)法(存在の範疇)の観察(法随観)という四つの観法の修習によって智慧を確立し涅槃に入ることが説かれている。

(「比丘たちよ、この道はもろもろの生けるものが清まり、愁いと悲しみを乗り越え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を目の当たりに見るための一道です。

すなわちそれが四念処です。」片山一良『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ―『大念処経』を読む』)

 

この法随観の一番最初に五蓋の観察が挙げられていて次のように説かれている。

「...比丘たちよ、どのようにして比丘は、もろもろの法において、法を観つづけて住むのか。比丘たちよ、ここに比丘は、五蓋の法において法を観つづけて住みます。

ではまた、比丘たちよ、どのようにして比丘は、五蓋の法において法を観つづけて住むのか。...」(片山、同上)。『大念処経』で展開されている五蓋の随観はおそらく(わたしには文献的な証拠をあげることができないので推測するに)、如浄禅師が道元禅師からの坐禅についての質問に対して五蓋の問題に触れながら答えていることと、なんらかのつながりがあるのではないかと思う。

『大念処経』と坐禅との比較ということも興味深い問題である。 

こで釈尊は五蓋に対してどう取り組むかについて五つのステップに分けて説いている。

ここでは貪欲蓋について、それを見ていこう。貪欲蓋とは、六根の対象である六境(色・声・香・味・触・法)に対する貪りのことである。

これについてはいまさら説明するまでもないだろう。

あらゆる形と強度での「~が欲しい」という思いのことである。

坐禅のなかでは、内的なドラマや物語(自分を主人公にした悲劇、恋愛物語、出世物語、成功譚など)への耽溺という形で現れたり、今起きていることではない何か別なことが起きてくれないだろうかといったような期待の形を取ることもある。

痛みや不快感に純粋に気づいているように見えても、実はそれが無くなるということが起きることをあてにして痛みや不快感を感じていたり、あるいは快感に関しても、それがもっと長く続くということを密かに期待しながらそれに気づいていたりという場合が多いのではないだろうか。

坐禅のなかでは、そのような一見貪りとは見えないような微妙な貪りがしばしば起きているので、貪りというものがどのようなあり方で発現しているかということへの細やかな洞察力を養っていく必要がある。

釈尊が説いている貪りへの取り組みの五つのステップは次の通りである。

1.内に貪欲があれば〈わたしの内に貪欲がある〉と知る。

2.内に貪欲がなければ〈わたしの内に貪欲がない〉と知る

3.未だ生じていない貪欲がどのようにして生じるかを知る

4.既に生じている貪欲がどのように断たれるかを知る 

5.断たれている貪欲が未来にどのようにして生じないかを知る

この五つのステップは他の四つの蓋に関してもまったく同じなので上の「貪欲」のところに「瞋恚」、「沈鬱・眠気」、「浮つき・後悔」、「疑い」を代入すればそれでよい。

さて、二番目のステップであるが、ある瞬間には五蓋がない場合もあるということを体験的に知ることはきわめて大事なことである。

坐禅をしていると、五蓋の雲に覆われていない、晴れ渡った青空のような瞬間が時折恩寵のように訪れてくることがあるが、これこそ釈尊が「光り輝く心光明心」と呼んだものである。

こういう瞬間を見逃さないでそれをしっかり見届けていくことで、坐禅に対する自信や信頼を育てていくことができる。

それはアタマで無理にそう信じようとしたり、根拠のない希望を空しく思い描くこととは異なり、自分自身の実際の経験に裏打ちされた確かなものである。

第三、四、五のステップは五蓋の生起と消滅についての理解に関わっている。

五蓋の縁起性の理解である。

貪欲蓋を引き起こす要因は数多くある。

感覚器官が何かに触れてその結果として快感が生じると、そのプロセスに注意が向いていないと(つまり気がついていないと)、それまでに身につけてきた習慣的な条件付けが働いてたちまち貪欲蓋のスイッチが入ってしまう。

お昼時の坐禅中に台所からうまそうな匂いが漂ってくると頭が食べ物のことで占領されて坐禅どころでなくなったり、前日に眼にしたとても魅力的な異性のことが忘れられず、坐禅中にその人とのロマンティックな空想が頭から離れなくなるといったことはしばしば経験することである。

しかし、こうして油断のうちに貪欲の思いにばかり心を用いていると、ますますその傾向が身について、そういう思いが起こりやすくなってしまう。

何につけても貪欲の思いがいともたやすく起きるというパターンが知らないうちにできてしまうのである。

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋