永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

----------------------------------------------------------

釈尊が悪魔を退けるときに発する「わたしはお前を知っている、悪しき者よ。お前はマーラである。」という言葉、そして悪魔が釈尊の前から消え失せるときに発する「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。」という言葉からもわかるように、五蓋は「五蓋と知られる」ことによってその支配力を失い、消え失せていくからだ。

「五蓋を五蓋と知る」、今回の掉挙悪作蓋について言うならば、掉挙悪作蓋が起きていたらそれが掉挙悪作蓋であると知ることがその手中につかまれない手立てになる。

ただし、ここで言う「知る」というのは、単なる知識としてアタマで知るという意味ではなく、「からだでうなづく」というようなもっと実感が伴った身体レベルでの知り方である。

たとえば、新約聖書のなかの『ルカによる福音書』で処女マリアが天使ガブリエルによって受胎告知される場面がある。

マリアは驚いてガブリエルに「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」と言う(第一章三四節)。

ここでマリアが使っている「知る」という言葉がその意味での「知る」の好例になるだろう。

釈尊が悪魔に向かって言う「お前を知っている」の中の「知る」も、悪魔が言う「尊師はわたしのことを知っている」の中の「知る」ももちろん、この意味での「知る」である。

この意味での「知る」をさらに細かくR.A.I.N.という頭文字であらわされる四つのセットになった取り組み(ワーク)に腑分けして考察してみよう。

RAINはアメリカのヴィパッサナー瞑想(南方仏教の瞑想法で漢訳仏教語では「観」に相当する)の指導者であるMichele McDonaldさんが提唱したもので、RはRecognize(起きていることをそれと認識する)、AはAllow(今の体験をありのままに在らせておく)、IはInvestigate(好奇心と思いやりを持って探究する)、NはNon-identify(経験と自分を同一視しない)と言う意味である。

坐禅の中で、掉挙悪作と目されるような現象が起き始めたら(つまり自分のしている坐禅が考え事の方に引きずられて、坐相のどこかに微妙な凝りが生じてきたら)、そういうことが起きているということに気づく(R)。

そのことに対してすぐさまリアクションを起こさないで一歩引いてただその現象を観察するという感じになるのだ。

考え事のストーリーの中にずっぽりと入り込まないようにして、たとえば「今自分の心に『あいつが俺にあんなことを言ったのはどうしてなんだ?』という考えが浮かんだ」と観るのである。

そのようにしたときに浮かんできた考えを、たとえ不愉快なものであっても、なくそ うとか変えようとしないでそのままそこに在らせておく。

その時自分のからだにどのような身体感覚が感じられているか、感情の状態はどうか、どのような思考が立ち上がっているか、といったことを精査する。

これらR-A-Iの三つの上にN、つまり考え事と自分を切り離すことが可能になる。

考え事は自分の全体ではなく、自分の存在の一部でしかないことを洞察するのである。

さらに、掉挙悪作(心の浮つき、考え事)という現象はいわば自分の支配下に属するものではなく、無量無辺の因果の流れから自ずと立ち現れそして消え去っていく無常にして無我なものであることを実際に観ていく。

「非思量」というのはそういうあり方のことを指しているのであり、思量箇不思量底というのは、立ち上がってきた思考に対して「わたしは(I)」とか「わたしの(my)」とか「わたしのもの(mine)」という余計なタグ(名札)をつけないで、どこまでも自然現象として流れるままにしておく努力を意味している。

take~personallyという英語の表現がある。

「~を個人的に受け取る、~を個人に対する言動、あてこすりと受け取る」というような意味である。

この表現を借りるなら坐禅では、take nothing personallyという態度が大切なのだ。

つまりどんなことでも個人的なこと、私的なこととして受け取らないということだ。

そうではなく、宇宙的な現象という広がりの中で受けとめるのである。

掉挙悪作にそういう個人的なタグをつけて対象化・実体化したとたんに身心に緊張や、ストレス、苦痛が生じてきて、それが蓋になってしまうのである。 

古来宗門の伝統において、坐禅中に浮かんでくる思念に対して「追うな、払うな」というアドヴァイスがなされてきたのも、それを相手にして何かしようと企てたとたんに逆にそれに囚われ足をすくわれてしまうことになるからだ。

RAINのワークを通して、掉挙悪作があくまでも一時的自然現象であり、こちら側から「追う」とか「払う」といった余計なことをしてさらにエネルギーを注がなければ、掉挙悪作それ自身の無常性に従って、いずれは必ず落ち着いてくるのを辛抱強く見守りながら(つまり坐禅を続けながら)待つ、というのが「追うな、払うな」ということの意味だろう。

それができているときには、掉挙悪作は掉挙悪作としてありながらも、少しも蓋にはならず(そういうのを「有りながら有りつぶれ」と言う。

有っても少しも邪魔にならないので無いのと同じの意)、坐禅がどこまでも広大で平安な空間としてそこにのびのびと開けている。

坐禅が「安楽の法門」だと言われるのは、悪魔を悪魔として在らせながら、むしろそのことで仏が仏であることが逆に際立つというような、そういう不可思議なことが何の苦もなく成立しているからだ。

RAINはいわば坐禅の調心の営みを細かく述べたものだと言っていいだろう。

しかし、調心は実は心の営みとしてそれ単独でできるものではない。

それを実質的に下支えしているのが正身端坐という調身と鼻息微通という調息の努力であることを忘れてはならない。

このことを最後に明記して今回の論考を終わる。

次回は五蓋の最後の項である、疑蓋について探究する。

(つづく)

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋