永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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伝統的な解釈のように、「八正道は涅槃への道である」という枠組みの中で八正道を考えるのと、「涅 槃とは八正道を実践することである」という枠組の中で八正道を考えるのとでは、八正道の理解も実践の仕方もまったく違ったものにならざるをえない。

繰り返しになるが、道の果てに目的地としての涅槃があるということは、道と別個に涅槃があると考えられているわけで、道と涅槃が二つあることになる。

道を歩いているときにはまだ涅槃には到達していないのである。

これは常識的にはわかりやすい考え方ではあるが、仏教が批判している人間の誤った二項対立的分別(虚妄分別)の立場での理解になってしまう。

誤った分別の中で八正道を理解しては仏道にはならないのである。

だから八正道と涅槃を二つではなくて、一如のものとして考えなければいけない。
「八正道即是涅槃 涅槃即是八正道」であるような、つまり八正道を実践することそのものが涅槃の具現になっているような、そういう八正道の実践をヴィジョンとして持たなければならないのである。

これはたとえば、われわれは幸せになろうとして、いろいろ努力しているが、今しているその努力自体が幸せでなければだめだということだ。

「幸せへの道はない。幸せが道である」からだ。

その努力している今が幸せだと感じるような努力でなければ、幸せでない努力をいくら積み重ね続けても意味がないのである。

しかし、われわれは、そういった誤りを気づかずに続けているのではないだろうか。

今は不幸せな努力をしているが、努力さえしていればその果てに幸せが待っているはずだと信じて......。

しかし、そのような甘い期待が実現される保障などまったくないし、そう信じるに足る根拠も実はきちんと吟味したことなどないの てある。

誰かがそう言っているからとか、みんながそうしているからといった本当にはアテにならないものをなんとなくアテにしているだけなのだ。

このような幸せになろうとするやり方は賢明なものと言えるだろうか?本当に幸せになろうとするなら、努力を始める以前にあらかじめ吟味すべきことがあるのではないだろうか? 
このことに関連して、釈尊が一群のジャイナ教修行者たちと出会った時のエピソードを思い出す。

かれらは坐ったり横になったりすることを禁じて、じっと立ったままですごし、その苦痛に耐えるという苦行を実践していた。

釈尊はそれを見て「あなたたちは何故そのような苦行をしているのですか?」と尋ねた。

するとその中の一人が「こうすることによって過去のカルマをすり減らし、これ以上カルマを増やさないことによって苦しみを終わらせようとしているのです。」と答えた。

釈尊は「では、これまでどのくらいの量の過去のカルマをすり減らすことができたのかわかりますか?」と問うた。

かれらは「いえ、わかりません」と答えた。

釈尊が「では、あとどのくらいカルマが残っているかわかっていますか?」と聞くと、かれらは「いえ、わかりません」と言った。

釈尊は最後に「過去においてあなたがたが確かに存在していたこと、そしてすり減らすべきカルマを今持っているかどうかを知っていますか?」と聞くと、かれらは首を振って「いえ、知りません」と答えた。

釈尊は「これは意味のない修行です」と言った。
 この経典がメッセージとして言おうとしているのは「修行の名のもとに自分がいったい何をやっているのか、なぜそういうことをやっているのか、それが果たして経験的に意味のあることなのかどうかを、 あらかじめよく吟味しなさい」ということだろう。

いかに熱心な修行であっても、それが賢明で適切なものでなければ意味をなさない。

修行は「正修行」でなければならない。

このエピソードに出てくるジャイナ教徒たちがやっていたことは釈尊から見れば「誤修行」だったのである。道元禅師もまた「仏家には教の殊劣を対論することなく、法の深浅をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし」とおっしゃっている。

八正道の一つ一つに、正見、正思、......というふうに「正」がつけられているのもそういう意味なのである。
この「正」というのは道徳的に正しい、正しくないというような意味ではなく、 「賢明な」、「適切な」というニュアンスが込められているのだ。

われわれもまたこの経典の中に出てくるジャイナ教徒のように、何かを一生懸命に修行していても、誰かからそうしなさいと言われたという以外に、自分がなぜそうしているかを知らないということがないだろうか。

あるいはどういう方向へ向かっているのか、どのような基準によって修行の実りを見分けるのかということについて何ら明確な理解をもっていないということすらあるのではないだろうか。

もしそうだとすれば、修行に内的な一貫性をもつことなど期待すべくもないし、せいぜいのところ根拠薄弱な信条とかきちんと吟味されていないあいまいな教義に基づいたあてずっぽうの修行にしかならないだろう。

修行に取り掛かる以前に、賢明で適切なヴィジョンと意図がなければならないということだ。

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋