永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

----------------------------------------------------------

さて、レッスンの場面にもどろう。


メレディスさんが言おうとしていることは、前回紹介した、「動かないけど動ける状態でいるbe movable without moving」とか「固めないままでじっとしているbe still without holding」といったこれまた「禅的な」表現と同じ方向性を指し示しているということはなんとなく理解することはできた。


要するに「油断なくリラックスできているかどうかということだろう」と。


しかし、言われていることがらを果たして実際に自分が体現できているのかどうかは自信が持てなかったので、彼女には正直に「わかるようなわからないような...。わたしは、うまくできていますか?」と言うしかなかった。


すると彼女はこう言った。


「わたしが言ったことを、できているかできていないかという課題として受け取らないでね。あなた自身が、余分な力の入っていない身心の状態をどれくらい感覚として実感しているか、ゆるんだ状態とゆるんでいない状態を自覚的にどれくらいわかっているかということが大事なのよ。からだを内側から感じていくことへとあなたを誘うために言ったことだったのだから。自分がやっている『余計なことを』やめていくということを経験できたかしら (experience the undoing of doing)?」


「一生懸命に坐ろうとか、集中しなければと思って、誤った頑張り方をすると、からだが窮屈になっていくからそうならないように。自分のからだを包んでいるもっと大きな環境、自分の息、部屋、音、光、他の人の存在、そういったものやことをあなたは感じているかしら?」 


「メレディス、わたしの息の仕方について何かアドヴァイスしてもらえませんか?」とリクエストする と、彼女はわたしの背中や側腹、肋骨などに手を置いた。


「そうね、さっきも言ったけど、もっと肋骨が前や後ろ、左や右、上や下に自由に動くのを許してごらんなさい(allow ribs to move)。まだ胸を固めすぎている感じね。...そう、そう、ほんの少しだけど確かに動いている感じがわかるでしょ。それと出る息は、無理矢理に押し出さないようにしつつ、だけど最後まできちんと出ていかせるように。出る息が終わったあとにポーズ(休止)が入ることに気づきなさい。入る息は入る息自身で勝手に入ってこさせるように。自分で吸い込もうとしないで...。」


アレクサンダー・テクニークでは、「呼吸を自分がする」ことだと考えるのは間違いである、と言われる。


プライマリー・コントロール(頭が首と背中に対して持っている特定の動的な関係のこと。


この関係こそがからだの使い方すべてにとって初源的な意味を持つのでこう呼ばれる)が良くなった二次的な結果として呼吸が自然に改善される。


だから、直接に呼吸を変化させようとする意図的なエクササイズやメソッドは「有機体に呼吸がやってくる」という自然な能力に余計な干渉をすることになる。


間違ったことをするのをやめれば、正しいことは自然に起こる、というのがアレクサンダー・テクニークの原則だ。


アレクサンダーは「実は、わたしのからだが要求に従って部分同士が完全な調和をとると、呼吸は従属的な動きとしてひとりでに機能するようになる」と言っている。


こういう考えからすると、道元禅師が『普勧坐禅儀』の中で唯一呼吸に関して言及している言葉である「鼻息微通」は、プライマリー・コントロールをうまく機能させることによって、脊椎が長くなる→脊椎についているすべての筋肉にやさしい伸びが起こる→脊椎の椎骨の間の椎間板がふくらんでさらに伸びる→胴体全体が解放される→肋骨が開く→肋骨が自由に動いて呼吸が楽になる...という一連の流れの中で自然に実現されていくべき呼吸のクオリティだと理解できる。


つまり、意識で息を直接的に統制して「鼻息微通」にならせるのではないということだ。 


坐禅の要諦である「正身端坐」(調身)にしても「鼻息微通」(調息)にしても、そして「思量箇不思量底=如何思量=非思量」(調心)にしても、いずれも直接的な取り組みによって「自分がやって実現させるべきこと」なのではなく、間接的な取り組みを通して自然に実現されるべきことなのではないだろうか。


この間接的取り組みのことを道元禅師は「ただわが身をも心をもはなちわすれて、佛のいへになげいれて、佛のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆく」と表現したのだと言えないか。


アレクサンダー・テクニークで使われる用語でこれを翻訳すれば、「ただわが身をも心をもはなちわすれて、佛のいへになげいれて」というのは身心の間違った使い方(misuse誤用)を抑制(inhibition)しundoing(ほどく、ゆるめる)するということになるだろうし、「佛のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆく」は、プライマリー・コントロールの自然な働きによって自己(self)の使い方が質的に改善し、生活のあらゆる面でポジティブな変化が現れる、ということになるだろう。


こうしてもたらされる根本的な変化のことを道元禅師は「ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、佛となる」と表現しているのだ。 


『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋