(前回の講義)

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今回読むのは、いわゆる調心にあたるところですが、「〇〇に注意を向ける」とか「〇〇を意識しましょう」といったよく見聞する心の調え方についての技法的な説明がなされているわけではないことに注意しましょう。

原文は「思量箇不思量底 不思量底如何思量 非思量」これだけです。

これは、坐禅をしている薬山禅師にある僧が問答を仕掛けて始まった二人の間のやりとりに出典を持つ有名な一文です。

この部分についての詳しい論究は、WEB春秋に連載中の「坐禅とは何か――『正法眼蔵』「坐禅箴」を身読する 藤田一照・宮川敬之」の第3回第4回を読んでください。

この一文は、心の調え方についてのインストラクションではなく、正しい坐相を骨組みと筋肉で誠実にねらい、あとはすべてをそれにまかせている時の、心の状態を記述したものだと僕は解釈します。

 

結論だけを言えば、「思量箇不思量底」は、思い手放しの姿勢である坐禅のときには、一つひとつの思量(「箇」はどれもこれも、の意)が不思量のままに自然と起滅してくるのに打ちまかせているだけで、そこでは、どの思量も不思量という自他に分かれる以前のいのちのはたらきとして現れたり消えたりしている、というふうに理解します。

(であるからこの文は「思量は箇(か)の不思量底なり」と読む)。

「不思量底如何思量」は、不思量は現に起滅を繰り返している個々の思量と別にどこかに実体としてあるのではない。

その不思量の当体は『どのように?(「如何」=概念的限定を脱落しているので疑問詞を用いてそれを指し示すしかない)』としか表現できないあり方をしている思量を離れては存在しません。

不思量底とはいまここに生き生きとダイナミックに流れている『如何の思量』そのものである、と理解します。(であるからこの文は「不思量底は如何の思量なり」と読む)。

そして、「非思量」は、坐禅とは、端的にいうなら『非思の量(思いではつかみきれないもの)』なのだ。

だから身心を挙げて実際に兀兀と修するしかない。

坐禅とは分別的営み以前の身心の姿勢をひたすら努める以外のなにものでもない、と解釈します。

思いがアタマの分泌物として、湧いては消えていくままになっている状態を、この三つの言い方で明示しているというのが僕の理解の仕方です。

それは、息が自然な調整作用で出たり入ったりしているのに干渉しないというのと同じ態度で、思念の起滅にただ気づいているだけです。


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