永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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ここでわたしが思い起こすのは聖書の中に出てくる有名な居眠りのエピソードだ。

それはマルコ福音書第一四章三二節から始まるゲッセマネの祈りの場面である。

 ...一同がゲッセマネというところに来ると、イエスは弟子たちに言った。

「わたしが祈るあいだ、ここに坐っていなさい」。

そして、ペテロとヤコブとヨハネを連れて行ったが、やがてイエスは、おそろしさにとらわれてもだえ、三人に言った。

「わたしは死ぬほどつらい。ここにいて、目を覚ましていてくれ」。

そして、すこし先へ行き、地にひれ伏して、できることなら、この時が自分をさけて通りすぎてくれるようにと祈って、言った。

「アッバ、父よ、あなたはなんでもおできになります。このさかずきをわたしから取りのけてください。けれども、わたしの思うままではなく、あなたの思いのままに」。

イエスが三人のところに来てみると、かれらは寝てしまっていた。

イエスはペトロに言った。

「シモン、寝ているのか。おまえは、わずか一時のあいだも、目を覚ましていることができないのか。目を覚まして祈っていなさい。そうすれば試みにはまることはない。霊はやる気でいても、肉体は弱いものだ」。

そして、イエスはふたたび行って、同じことを祈った。

そして、また三人のところへ来てみたが、かれらは眠っていた。

かれらの目はすっかり重くなっていたのである。

...(本田哲郎『小さくされた 人々のための福音四福音書および使徒言行録』新世社) 

師のイエスが血の汗を流すほど必死の思いで祈っているときに、そのそばにいる弟子たちが居眠りしていたというのは驚くべき記述である。

キリスト教の世界でこのエピソードがどのように理解されているのかは知らないが、これはまさに、肝心の時にそこで目を覚ましていてきちんと現実の状況に向かい合うことを避けて、ウトウト眠ってしまう惛沈睡眠蓋の好例である。

このすぐ後に、イエスは逮捕されてしまうのだが、弟子たちの心の深層にはそのような緊迫した状況から逃避したいという思いがあったのではないだろうか?

困難な状況を寝てやり過ごそうとするのである。

現実からの逃避の一形態と言える。

イエスがペテロに「目を覚まして祈っていなさい」と言ったように、われわれも「目を覚まして坐っていなさい」と呼びかけられているのだが、それがなかなかできないのである。

では、坐禅中にこのような惛沈睡眠蓋が生じてきたときはどう対応すべきなのだろうか?

まず最初の課題は、これまでの蓋と同じく、その存在にはっきりと気づくことである。

そしてそれに抗(あらが)って争わないことだ。

特に眠気の場合は、それを理由に持ち出して坐禅を中断しないことが大切である。

せっかく、眠気が出てきてくれたのだから、それを学びの好機として活かし、惛沈睡眠蓋を修行の糧とする工夫を続けていかなければならない。

活力のレベルというのは生理的に上がったり下がったりと自然に変化しているので、坐禅に眠気はつきもので、遅かれ早かれ現れてくるものだから、眠気があるからと言ってやる気をくじいてはならない。

活力のレベルが高い、低いにかかわらず、坐禅するべき時が来たらベストを尽くして坐禅をするというのが基本原則である。

眠さを嫌わずに、かといって眠さにおもねることなく、それと一緒に坐禅する工夫を開拓していくのである。

それは、惛沈睡眠に坐禅が飲み込まれるのではなく(そうなると蓋になってしまう)、坐禅の中に惛沈睡眠を惛沈睡眠として在らせるということを意味している。 

最後に、瑩山禅師の『坐禅用心記』には惛沈睡眠蓋に対してのアドヴァイスがいくつか記載されているので、それを参考までに載せておこう。

古人も坐禅中の惛沈睡眠蓋には悩まされたと見えて宗門には実にいろいろな対処法が伝承されている。

・心若し昏沈する時は心を髪際眉間に安ず。 

・坐中若し昏睡来らば、常に応に身を揺るがし、或いは目を張り、又心を頂上と髪際と眉間とに安ずべ し。猶未だ醒めざる時は、手を引べて応に目を拭いあるは身を摩すべし。

・猶未だ醒めざる時は、座を起て経行す。正に順行(左に身を転じて歩行すること)せんことを要す。 順行して若し一百許歩に及ばば、昏睡必ず醒めん。

 ・是の如く経行すれども、猶未だ醒めざる時は、或いは目を濯い頂を冷やし、或いは菩薩戒の序を誦 し、種々に方便して、睡眠せしむること勿れ、 

・当に生死事大無常迅速なるに、道眼未だ明らかならず。昏睡何ぞ為さんと観ずべし。 

・昏睡頻りに来らば、応に発願して云うべし。業習己に厚きが故に、今睡眠蓋を被る。昏蒙何の時か 醒めん。願わくは仏祖大悲を垂れて、我が昏重の苦を抜きたまえと。

 現在、修行道場では直堂役が警策で肩を打って覚醒を促す以外に、惛沈睡眠蓋に関してどのような手立てを講じているのであろうか?

眠っている人を外から揺り起こすだけでは片付かないものを惛沈睡眠蓋が持っているのだとすれば、坐禅中の居眠りは各自がもっと自覚的に取り組むべき問題ではないかと思う。

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋