永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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パーリ仏典のなかにVitakkasanthana Suttaというお経がある。

この中で、瞑想行中に湧き上がってくる不善な思いにどう対処すべきか、その方法が釈尊によって懇切丁寧に説かれている。

坐禅中の「思量」の問題を考察しているわれわれにとって、たいへん興味深い内容になっている。

全文を引用したいところだが、長くなるので、要点だけを抜粋することにしよう。

1「比丘がある主題に出会って、意を注いでいるときに、欲望や瞋(いか)りや癡(おろか)さを伴う、悪 しき、不善な思いが起こる場合がある。比丘はその主題から離れ、善心所が起こるような別の主題に意を注ぐべきである。比丘がこの別の主題に意を注いでいるならば、欲望や瞋りや癡さを伴う、悪し き、不善な思いは捨てられ、消滅していく。」

2「比丘がこの善心所が起こるような別の主題を用い、意を注いでいてもまだ、欲望や瞋りや癡さを 伴う、悪しき、不善な思いが起こるのであれば、比丘はそれらの思いの欠点をつぶさに見るべきであ る。『本当に、これらの私の思いは不善なものである、これらの私の思いは恥ずべきものである。これ らの私の思いは苦の結果をもたらす』と。比丘が、それらの思いの欠点をつぶさに見るならば、欲望 や瞋りや癡さを伴う、悪しき、不善なそれらの思いは捨てられ、消滅していく。」 

3「比丘が、欲望や瞋りや癡さを伴う、悪しき、不善なそれらの思いについて欠点をつぶさに見ても、 まだそれらの思いが比丘のうちに起こるならば、比丘は、それらの思いに心を遣わず、注意を払わない ようにするべきである。比丘がそれらの思いに心を遣わず、注意を払わないようにしていると、悪しき、 不善なそれらの思いは捨てられ、消滅していく。」 

4「比丘が、欲望や瞋りや癡さを伴う、悪しき、不善なそれらの思いについて、心を遣わず、注意を払わないようにしていてもなお、それらの思いが起こるならば、比丘は、それらの思いを形作る思考の 形成作用を緩めるように意を注ぐべきである。比丘が、それらの思いを形作る思考の形成作用を緩めるように意を注いでいると、悪しき、不善なそれらの思いは捨てられ、消滅していく。」

5「比丘が、それらの思いを形作る思考の形成作用を緩めるように意を注いでいてもなお、それらの思いが起こるならば、そのときは、歯をくいしばって、舌を上口蓋に押し付け、気付きで以って、その心を打ち負かし、さえぎり、粉砕するべきである。比丘が、歯をくいしばって、舌を上口蓋に押し付け、気付きで以って、その心を打ち負かし、さえぎり、粉砕していると、悪しき、不善なそれらの思いは捨てられ、消 滅していく。」

 「さて、比丘が...主題を別のものに替えて意を注いだり...(不善の)思いの欠点をつぶさに見たり... (不善の)思いに心を遣わず、注意を払わないようにしたり...(不善の)思いを形作る思考の形成作用 を緩めるように意を注いだり...歯をくいしばって、舌を上口蓋に押し付け、気付きで以って、その心を 打ち負かし、さえぎり、粉砕しているならば、比丘は内部に心が確立し、定められ、統一され、集中 される。」「そのとき、比丘は、思いがつながっていく道において練達した比丘と呼ばれる。彼は、思いが思いたいものであれば、その思いを思い、思いたくないものであれば思わない。彼は渇望を乗り越え、執着を脱ぎ捨て、自意識(慢)を正しく洞察することにより、悩み・苦しみを終わらせた。」 このように世尊は言われた。満足し、比丘たちは世尊の言葉に喜んだ。 

この経典はマッジマ・ニカーヤ(中部経典)のなかの第二十経で日本語の題名は『考想息止経』となっている。

「考想」を「息止」することを説くお経、という意味である。

この経典の英訳をさがしてみると、二種類見つかったのだが、面白いことにかなりニュアンスの異なる題名がつけられている。

一つは、The Removal of Distracting Thoughts、もう一つは、The Relaxation of Thoughtsとなっている。

前者は 「注意をそらせるような思考の除去」、後者は「思考のくつろぎ」という意味である。

前者の訳者が思考に対して否定的な立場に立っていることは明白で、このお経がある特定の瞑想対象(この経典で「主題」と呼ばれているもの、例えば、呼吸とか身体感覚)に対して持続的に注意を注ぐという作業を邪魔するような思考をどう取り除くかについて釈尊が説いているという理解に基づいて訳出している。

ここでわれわれが気をつけなくてはならない点は、思考について否定的な立場からの前者の訳においてさえも、あらゆる種類の思考を除去しなければならないというような無茶なことがこのお経のなかで主張されているのではなく、除去の対象はあくまでも「欲望や瞋りや癡さを伴う、悪しき、不善な思 い」という限定条件付きの思考に関してだけだということがはっきり述べられていることである。


(つづく) 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋