永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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しかしこの点についてであるが、実は長い間日本において「小乗仏教」という蔑称でよばれることが多かった南方仏教で重視されている瞑想経典である『アーナパーナサティ・スッタ(出入息念経)』をひもとくと、呼吸を意識しながら身体・感覚・心・法の四つに対して、それぞれ四つずつ、計一六種類の観察を行うことが基本になっており、このうち最初の二つは(1)息を長く吸っている時、吐いている時はそれと知る、(2)息を短く吸っている時、吐いている時はそれと知る、という指示がなされている。


そこには数息のことは説かれていない。


また同じく南方仏教の伝統で重要な瞑想経典である『サティパッターナ・スッタ(四念処経)』においても、最初の「身体を観察する瞑想」では(1)息を吸う時息を吸っていることに気づき、息を吐く時息を吐いていることに気づく、(2)長く吸っている時には「長く吸っている」ことを知る。

長く吐いている時には「長く吐いている」ことを知る。

短く吸っている時には「短く吸っている」ことを知る。

短く吐いている時には「短く吐いている」ことを知る、という指示がなされていて、やはり数息のことは説かれていない。 


このことから「この息は長く、この息は短しと知る」という調息の仕方は南方仏教、大乗仏教共通の 方法というべきで、おそらく二つの伝統に分かれるずっと以前から伝わっている仏教独特の原初的瞑想法なのだろう。


道元禅師が小乗の調息とよんで批判する数息という方法は「この息は長く、この息は 短しと知る」という仏教の正統的調息法に対して何らかの意味での便法あるいは準備段階での練習法として副次的に考案されたものと解せるのではないだろうか。


仏教の正統的伝統においてはあくまでも、われわれにとって最も身近で卑近な「呼吸」という自然現象に造作を加えたり操作することなく、ありのままにきめ細かく観察するという単純極まりない取り組みがはかり知れない功徳を産みだすという事実が大切に継承されてきたのだ。


そのような功徳が産みだされる第一の理由は、呼吸に気づくことで直ちに自分自身に帰ることができるからだ。


次々に押し寄せてくる雑事に引きずり回され、自分自身にもどる時間さえないほど忙しい日常を送っているわれわれは、自分から切り離された自己疎外状態に陥っている。


「この息は長く、この息は短しと知る」ことは自分にたちもどり、心と体の統一を回復する素晴らしい道なのである。 


第二の理由は、今ここでダイナミックに息づいているいのちに直接触れることができるからだ。


息を吸ったり吐いたりしているのは、普段「俺、俺」と言っている「自分」ではない。


自分の意志的努力の成果ではなく、それとは関係がなく、身体が生きていることの一側面として、まさに「自然現象」なのだ、ということが実感として味わえるのである。


「自分」を刻々に生かさしめているいのちの事実に直接する、それが「無常さとりやすく」ということなのだろう。


ちなみに、ここで道元禅師が「大乗の調息の法」について記しているところには、息が出入するポイントとして「丹田」という言葉が記されているし、「如浄禅師の調息法」でも「丹田」への言及があるのだが、南方仏教の呼吸瞑想指南書には「丹田」への記載はない。


インド文化と中国文化の身体観の相違を反映したものなのだろうか? 


さて、「大乗調息の法」では「今息を吸っているな」とか「入る息が長くなったな」という具合に自分が息を自覚的にはっきり意識することが説かれていたが、「天童如浄禅師の調息の法」では「長ならず短ならず」というふうに、「長い―短い」といった相対的な意識が脱落している点が強調されている。


一息一息、外の空気が勝手に吸い込まれ、また出ていくから(「息入り来たって...」、「息出でて...」と「息」そのものが主語になっている)、一つ一つの入息、出息が絶対の、つまり比較を絶した自ずからなる息として体験されるので、比較の上で初めて言うことができる「長い」とか「短い」とかがもはや問題にならなくなっているのだ。


だから、息は外から丹田に入ってくるから、当然それがやってくる場所がどこかにあり、丹田から外へ出ていくのだからどこかに行く先があるはずだという、息そのものと去来の場所を二つに分けて考える相対的な見方もそこでは脱落することになるので、「従来の処」も「得去の処」も想定されることがない。


長い息は長い息なりにそれぎりで完結、短い息は短い息なりにそれぎりで完結。


そういうあり方で比較を絶していることを「長ならず短ならず」と言ったのである。


 しかし、「道元禅師の調息の法」はここからさらに、そういう大自然のはたらきのままに出入している息の事実はもはや「大乗」とか「小乗」という人間の作ったレッテルを張る余地のないものであるから「大乗にあらずといえども小乗と異なる。小乗にあらずといえども大乗と異なる」と言うのだ。


大乗―小乗という相対的対立の世界を超えたところに真の大乗があるとの意から、大乗でもなく小乗でもないという表現をしているのである。


そして端的に「出息、入息、非長、非短」と結論する。


ここで留意しなければいけないことは、ここで取り上げられている三つの調息の法は浅く未熟な調息法からより深遠で成熟した調息法へという三つの段階として並べられているのではないということだ。


大乗調息の法=如浄禅師の調息の法=道元禅師の調息の法として三即一と理解しなければならない。


つまり『普勧坐禅儀』で調息に関して言われている「鼻の息は微かに通ず」という坐禅の息のありようを三つの言い方で表現しているのである。


一つの息の事実を三様の言い方で表しているということだ。


そこに調息法としての高低や上下の差別を見てはいけないのである。


ただ、「大乗調息の法」と「如浄禅師の調息の法」の表現に完全には満足せず、道元禅師が自分独自の表現をあえて加えたのは、それら二つの表現ではまだ「まどろっこしい」というか「冗長」なところがあって、なによりもまだ「瞑想法的」、「テクニック的」なニュアンスの残滓が感じられたからではないだろうか。


だから、端的に、それこそ一息に「出息、入息、非長、非短」と言うだけにしたのではないか。


ここには人間的な操作や概念の入り込む余地がまったくない端的な、坐禅の息の事実だけが見事に丸出しにされているではないか。


次回は、坐禅における調息に関して論じ残した諸問題について検討する。

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋