永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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坐禅における息の問題については、すでにこの連載の第八回から第十回においてかなり詳しく論じているので、未読の方はぜひ読んでいただきたい。

今回は、『永平廣録』巻五に示された道元禅師の調息に関する法語を味わうことを通して、再び坐禅における息の問題をフレッシュに参究していこう。

その法語とは次のようなものである。

「衲子の坐禅は、直須(ただ)端身正坐を先とすべし。然して後、調息に心を致す。(中略)小乗の人は数息を以て調息となす。しかれども仏祖の弁道は、永く小乗と異なれり。仏祖いわく『白癩野干(びゃくらいやかん)の心をおこすといえども、二乗自調の行をなすことなかれ』と。(中略)大乗にもまた調息の法あり、いわゆる、この息は長く、この息は短しと知る、すなわち大乗調息の法なり。息、丹田に至り、また丹田より出ず。出入異なるといえども、ともに丹田に依って入出す。無常さとりやすく、調心えやすし。先師天童いわく、『息入り来たって丹田に至る。しかありといえども従来の処なし、ゆえに長からず短からず。息出でて丹田より去る。しかありといえども得去の処なし。ゆえに短からず長からず。先師すでにかくのごとくのたまう。永平にあるいは人あって問わん。『和尚如何が調息する』と。ただかれに向かっていわん。『大乗にあらずといえども小乗と異なる。小乗にあらずといえども大乗と異なる』と。他また畢竟じて如何と問うことあらば、他に向かっていわん。『出息、入息、非長、非短』と。(後略)」

 われわれ坐禅修行者が「坐禅における呼吸」の考察を深めていく際には、『永平廣録』のこの文章と、『普勧坐禅儀』に書かれている

「鼻息微通(鼻の息はかすかに通ずべし)」、

そして『永平清規弁道法』にある

「鼻の息は通ずるに任せ、あえがず、声せず、長からず、緩やかならず、ひきしまざれ」

の少なくとも三つが標準になるだろう。

これら三つの標準が共通して何を指し示しているのかを正しく受け止める必要がある。

そこでは端身正坐、すなわち正しい坐相で坐り、身体の生命活動である自然の呼吸のそのままの在り方に任せていくというのが坐禅の調息であるという「調息ではない調息」が説かれているということをまず押さえておかなければならない。

これは以前にも指摘したことだが、いかなる意味においても「人為的な呼吸法」を坐禅中にしてはならないということだ。

坐禅は想定された「正しい呼吸」を目指して呼吸の仕方を工夫することではない。

「調息」、つまり「息を調える」という表現を聞くとどうしても、自分が息に対してなにか影響を与えてそれをより良いものに変えようとする営みであるかのように理解してしまいがちなのだが、こと坐禅に関してはそうではないのである。 

むしろその真逆で、「呼吸に対してこちらからは何も手をつけない」というのが坐禅の調息なのだ。

だから「調息ではない調息」などという変な表現をせざるを得ないのである。

この点を取り外すと、呼吸に関して述べれば述べるほど、坐禅の実際から遠ざかることになってしまう。

「そういう呼吸」を目指して、呼吸を枠に入れて操作するような義務的な呼吸を「してしまう」からだ。

そうではなく、自らの呼吸に影響を与えずに、自分の呼吸をありのままに細やかに感じられるかどうか、良い呼吸をしようなどと一切企てず、呼吸を操作せずにそのままにしておけるかどうか、ということが最も大切な態度なのである。

だからこそ、道元禅師が坐禅における調息について書いた数少ない文章には「呼吸をかくかくしかじかのやり方で操作しなさい、統制(コントロール)しなさい」といったマニュアル的な臭みが一切感じられないのだ。

英語にはマピュレイトmanipulateという「〔手で〕操作する、巧みに扱う、操る、コントロールする」という意味の動詞がある。

われわれは、「さあ調息するぞ!」とばかりに呼吸に取り組もうと身構えて息に向かうと、自分でも意識しないうちに息をマニピュレイトし始めるのだ

静かに落ち着きくつろいだ状態で、「深い呼吸」とか「規則的な呼吸」といった目標を追い求めようとせずに、呼吸に手を出さないで、それが自発的に起こるに任せ、起こらないことは起こらないこととして受け入れること、つまり「何もしないでいること」は実はわれわれにとってとても難しいことなのである。

 

それはなにも呼吸に限ったことではない。

われわれは日々、自分や世界を絶え間なくマニピュレイトし続けていて、それだけが生きることだと知らない間に思い込んでいるのではないだろうか。

しかしそのせいで、われわれは自己や世界を直接に知覚することができなくなっていることに気づいていないのだ。

だからこそ、自己や世界の本当の姿を知るということが修行の重要な課題になるのである。

われわれにはなにがからだの自然な働きなのか、それは日常生活の中での機械的な行為や社会的に条件づけられた行動とどこがどのように違っているのかということがもはやわからなくなっている。

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋