永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」坐禅の別名は「帰家穏坐」2 】

 そんな時は、われわれの修行者としての決意や、確信がいかに強いものだったとしても、いったい自分がどこに行こうとしているのかが、本当にはわかっていないという否定しようのない不安にいつもつきまとわれている。

だから、踏み出す一歩一歩にためらいと無理矢理さが感じられるし、自分がまったく一人きりで歩いているような孤独な思いにも襲われる、しかしかといって、歩むのをやめて立ち止まることもできない。

自分と道との間に距離が感じられるというか、疎遠で「水臭い」間柄なのだ。

それが「門の外にいて、まだ家の中に入っていない」と比喩的に表現されている状態だ。

そうであった者が、幸いにも道に出くわした時のことを想像してみよう。

もうこれからは以前のような迷い、はからい、ぎこちなさ、躊躇といったものはない。

道はもはや想像や推測の産物ではなく、今や自分の足元にあるリアルなものだからだ。

というよりも、自分が道に属していると感じられるほど親密な関係になり、自分の行うことはなんであれ、それがとりもなおさず道を修行することに成っている。

「地図と現地」という比喩を使うなら、加行位はあくまでも「地図を学んでいる」のだ。

門を通って家の中に入るというのは、地図ではなく「現地、現場」に足を踏み入れて、そこを実地に歩くということに当たる。

だからそこには決定的な違いがある。

坐禅は地図ではなく、リアルな現地に直接的に触れることなのだ。

それが「家に還って穏坐するに似たり」と言われていることだ。   


仏教の基礎教学と言われている倶舎学では、修行とは一言でいえば、転迷開悟、つまり有漏の迷界(凡夫の世界)を去って、無漏の悟界(仏の世界)に到ることである。

このような「転迷開悟(転凡入聖(てんぼんにっしょう))モデル」においては、有漏というあり方を特徴づけている煩悩に、何世にもわたって翻弄され続けてきたわれわれ(凡夫)が無漏(仏)に到るために、きわめて長時にわたる細かな次第階級を踏んで、修行の道を進んでいかなければならない。

そこでの修行位次は、有漏智をもって善根を修する位(賢位)と無漏智を発して正理を悟る位(聖位)という大きく二つの段階に分けられている。


最初の賢位の段階は、さらに細かく分けられて七加行(けぎょう)(三賢+四善根)と言われているが、これはまだ依然として凡夫段階の修行であって、未だ道には入れてはいないのだ。

つまり、まだ門の外で支度をしているに過ぎない。

倶舎学の言葉で表現すれば、「まだ道を見ていない」(今まで見えていなかった道を今初めてじかに見ることを「見道(けんどう)」と言う)、あるいは「涅槃に向かう流れの中にまだ入っていない」(流れに入ることを「預流(よる)」と言う)ということになる。

実はわれわれが、普通に仏道の修行と言う時に思い浮かべるコンテンツはたいていの場合、この賢位の修行のカテゴリーに入っている。

たとえば、シャマタ(止)、ヴィパッサナ(観)と呼ばれる仏教の瞑想実践は、賢位の修行の最初の三賢に当たる、ごく初歩の段階の修行なのだ。

「加行」という言い方が示しているように、見道(預流)以後の聖位で初めて可能になる「正行」に対して、あくまでも予備的な行という位置づけなのである。


だから、この修行モデルにおいては、もし坐禅がそのような瞑想と同じものだとするなら、われわれが曹洞宗の宗学で当たり前のように言っている「坐禅は一超直入如来地である」とか「坐ったら即仏である」、「初心の弁道すなはち本証の全体なり」、「修証一如」などということは、金輪際あり得ないことになる。

しかし、『坐禅用心記』では坐禅をすることが即ち、門を通って家の中に入り、そこで穏やかに坐ること(坐仏)だと言われている。

これは、倶舎学で言われている修行位次説を全く無視した、ある意味とんでもない話である。

それどころか深読みをすれば、「倶舎学がいかにも力説している修行位次の説それ自体が聞思にすぎず、そんなことにこだわっているからなかなか門の中に入れないのだ。素直に坐禅しさえすればもうそれで家に帰って穏坐できるのに、惜しいなあ」と、それとなく揶揄しているようにさえ思えてくる。

どうやら、われわれの坐禅は「転迷開悟モデル」を基にして行われる瞑想とはまったく素性が異なる営みであり、そもそも坐禅が基にしている修行のモデルは「転迷開悟モデル」ではなく、それとはまったく前提の違う(本来成仏 証上の修 即心是仏)「迷悟超越(超凡越聖)モデル」(『宝鏡三昧』に言う「迷悟に属せず」)」なのである。


だから、「只箇の坐禅は、一切休歇し、処として通ぜずということ無し、故に家に還って穏坐するに似たり」は、瞑想のパラダイムと坐禅のパラダイムの違いを明白に示唆する重要な一文ということになる。

坐禅は倶舎学流の修行位次の階段を辿(たど)らず、一足飛びに家の中にワープ(テレポート?)するのである。

坐禅してぼちぼち家の中に入っていくのではなく、坐禅することが即ち帰家穏坐なのだからそこには時間の入る余地がない。

わたしはずいぶん昔、何かの本を読んで、坐禅が「帰家穏坐」とも呼ばれているということを知った。

その時以来、「帰家穏坐」という坐禅の別名は、わたしの心に強い意味合いをもって残り続けている。

 

 

 

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋