永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」「仕切りのある心」から「統合されている心」へ3 】


心がこうした記憶を受け取ると、かつて「自分」が存在していた以上、今も当然「自分」が存在しているはずだという結論が導かれる。

さまざまな思考がどこからかやって来る以上、それは「自分」から起こってくるに違いない。

こうして、「思考する主体」が「思考」とは別に想定されることになる。

しかし、本当にあるのは思考、感情、記憶だけであって、そうしたものから独立したまったく別な「自分」という実体があるのではない。

ここでもう一度整理すると「仕切られた心」というのは「経験とそれを受け取っている自分」という二元的なあり方をした心を指す。

仏教的に言うと「能(主体)」と「所(客体)」とが対立した仕方で仕切られて働いている心のことだ。   


こういう仕切られた心では、思考と思考する者とが区別されているから、その枠組みの内側で、自分を困らせるような思考や感情を何とかしようとして努力する場合、当然ターゲットになるのは思考や感情の方で、思考する者の方ではない。

しかし、思考する者が思考や感情を、何とかしようというやり方で努力すればするほど、「思考する者がある」という感じが、その裏で密かに強化されていく。

ましてや、この二元的な枠組み自体を、問題にすることなど思いもよらないことになる。

この「分離した自分がいる」という感じを、不問に付したまま行われる修行では、上に言った意味での仕切りが、微妙かつ巧妙な仕方で維持され続けている。

自分は自分なりに一生懸命にがんばっているし、それなりに臨んだ結果も得られているように感じられる。

修行もゆっくりではあるが前に向かって進んでいる......。

しかし実際には、能と所に仕切られた心のパラダイム自体には、何の変化も起きていないのである。


この能・所という根本的な仕切りから、さらにさまざまな仕切りが芋づる式に生まれてくる。

われわれはたいてい「自分を好くしよう」として修行するが、この態度自体に、さまざまな仕切りがあることに気づかなければならない。

そこには「好くない心」と「それを好くしたいと望む自分」を区切る仕切りが立ち上がっている。

その他にも理想と現実、将来と今、進歩と停滞、成功と失敗、......といった細かな仕切りの存在を見つけることができる。

しかし、釈尊の行った樹下の打坐、道元禅師の勧める只管打坐は、そのような仕切りのある心のパラダイムとは、まったく違った統合されている心のパラダイムに基づいている。

釈尊が瞑想のやり方について説いている経典を読むと、「煩悩まみれの心を清浄な心に変化させるように努力せよ」などとは言わない。

ただ「あなたの心がどんな状態であるにせよ、今のその状態にきめ細やかに気づいているようにしなさい」と言うだけだ。

道元禅師もまた「散乱している心を鎮めよ」とか「思考を停止させよ」といった瞑想的なことは何も言わない。

ただ「端身正坐を先として、調息に心を致せ」と言う。

意図的に心を鎮めたり、思考をなくそうとするような坐禅は「いたづらに息慮凝寂の経営」であると言って批判している。


心に何であれ、変化を起こそうとする心は「是/非」「善/悪」、「好/悪」といった仕切りのある心(『信心銘』の冒頭に出てくる「至道無難唯嫌揀擇」という一文の中の揀擇=選り好み)だからだ。

「自分」と「自分に起こっている出来事」という二つの別々なものがあると考えるところに、そもそもの仕切りが生まれてくる。

そして、心が思考を使って、描き出した現実(出来事の総体)に文句や意見を言うときに「自分は」という感覚が立ち上がってくる。

だからこそ、釈尊や道元禅師は、刻々に生起してくる身心の状態に向かって意見を押しつけず、ありのままの状態に深く気づいて、それに対して抵抗を入れないで柔らかく受容していくことによって、結果的にこの仕切りを解消していくことを勧めているのだ。


「自分」が現象から独立した単独の実体として「心」に働きかけようとするのが「仕切りのある心のパラダイム」だとすれば、「自分(という感覚)」もまた縁起によって展開している現象の一部として、その中に含まれているものとして修行するのが「統合された心のパラダイム」だ。

「道本円通」から出発して「尽大地、尽一切とともに坐る」坐禅は明らかに後者のパラダイムに属している。

だから、心の仕切りができるだけ最小限になるような態度(具体的に言えばたとえば、「善悪を思わず、是非を管せず」という価値判断の保留、「心意識の運転を停め、念想観の測量を止める」という受容的態度、「非思量」という手放し、......など)で坐禅することを学び、「自分が坐禅をやっている」という感覚が最終的には消失するような方向に深まっていかなければならない。 

坐禅においては、重力との精妙なバランスを実現した、正身端坐に支えられた深いリラックス状態のなかで、眼耳鼻舌身意の六根がシャープに働いている。

そこから届いてくる六種の感覚に均等に静かにさらされていると、バラバラに存在しているように感じられた、すべての物が一つながりの全体へと帰っていく。

これが「統合されている心」であり、そこにはもはや「能/所」の仕切りはない。

こういうあり方を、一言で言ったのが道元禅師の「現成公案」ではなかったろうか。

 

 

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋