永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」八正道論(3)―最少抵抗の道―3】

スラックラインの上に乗ろうとするときに、まず最初に出会うジレンマを自分がどのように克服したのかということは、まだうまく言語表現できないでいる。

落ちては上がり、落ちては上がりを繰り返しているうちに、なんとなく要領がつかめて、ある時ふっと乗れるようになったのである。

主観的な感じから言えば、それまではラインをなんとかして自分の意に従わせようと、上にいるわたしの方からラインに向かって足で制御しようとしていたのだが、そういうコントロールへの衝動を手放して、下にあるラインの方から、わたしに向かって来る支えを感じて、それをからだ全体で素直に受け取れるようになったというのが、一番大きな感覚の変化だったと言えるだろう。

このラインとわたしの関係の質的変化というところにとても大事な問題があるのではないかと今は思っている。


さて、スラックラインから話を元に戻そう。

道元禅師が若き日に取り組まれたと言われている「本来本法性、天然自性身。若しかくの如くならば、則ち三世の諸仏なにに依ってか、更に発心して、菩提を求むるや」という疑問は、今まで論じてきた問題と深く関わってくるのではないだろうか。

この仏道修行をめぐる重大な問題への決定的な解法として、道元禅師が見出したのが只管打坐の坐禅であったとすれば、坐禅をひも解いていくことで、われわれにもジレンマからの突破口のヒントぐらいは見えてくるのではないかと思う。


道元禅師が普く勧める(「普勧する」)坐禅は「上智下愚を論ぜず、利人鈍者をえらぶことなかれ」 (『普勧坐禅儀』)と言われているように、万人に向かってひらかれている坐禅である。

だから、僧侶か一般人か、男性か女性か、など一切の差別なく、誰にでも勧めることのできる坐禅のはずであるが、実際は特別な人たちのための特殊な苦行であるかのように、理解されている場合が多いのではないだろうか。

またそのようなものであるかのように坐禅が実践されていることも多いのではないか。

いったいなぜそうなってしまったのか?またそういう現状をどのようにして打開していくべきなのか?われわれ坐禅に関わる者は、心して考えていかなければならない。


「ちからをもいれず、こころをもついやさず」という表現が『正法眼蔵生死』の巻にある。

われわれが「生死をはなれ仏となる」のは、そのようにしてであるとはっきりと書かれている。

そのようなことが、なぜ可能かといえば「仏のかたよりおこなはれて、それにしたがひもてゆく」からだ。

そのためには、われわれは「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のかたになげいれて」いかなければならない。

ここで言われていることが、坐禅の要訣ではないだろうか。

それは、われわれが坐禅に対して抱いているイメージとはだいぶかけ離れている。

しかしそれは、われわれのイメージの方が間違っているのである。

われわれのイメージでは、吾我がいい坐禅をめざして懸命に頑張る、個人的な努力という考えのレベルでの坐禅になっている。

それでは「身も心もはなちわすれる」どころか逆に身心を緊張させる方向の努力になり、「仏のかたよりおこなわれることにしたがいもてゆく」という安楽の道ではなく、困難に抵抗して、それに打ち勝っていくという悪戦苦闘の道を歩むことになってしまう。

正見から始まる、八正道もまた坐禅と同じく「ちからをもいれず、こころをもついやさず」という、最少抵抗の道(path of least resistance)でなければならない。

分離した吾我という考えのレベルを、変えないでその立場に立って、あたかも金属を熱を使って。溶接していくように無理矢理につながりをつくりだそうとする(でっちあげる)のではない。

無我や縁起という、それとはまったく異なる考えのレベル(それが正見)から、身心をリラックスさせ(つまり、身も心もはなちわすれて)、よく観て(仏のかたよりおこなわれてくることを見逃さず)、すでにあるつながりが、より鮮明に現れてくることを許す(それにしたがいもてゆく)という、抵抗をできるかぎり最小にしていく可能性を探りながら、生活全般を工夫していく道なのである。

そこには、問題に対抗して、こちら側から抵抗する力を増せば増すほど、その問題が本来は、根拠のない想像上のものであったにもかかわらず、そのせいで現実性を増していき、われわれは真実からますます遠ざかってしまうという深い洞察がある。


初めに引いた、母親と子どもの笑い話を思い出してほしい。

想像上の虎の脅威から逃れるためには、その想像そのものを止めてしまうのが一番抵抗の少ない、そして一番根本的な解決の道だったのである。

問題が発生してから後の話ではなく、問題が発生する以前のところに、眼をつけるというのが『普勧坐禅儀』の「原(たず)ぬるに夫(そ)れ道本円通」という冒頭の言葉の意味ではないだろうか。

元の元に帰って見たら(想像=妄想を止めてみたら)どこにも問題はなかった(虎はいなかった)というところに、坐るのが坐禅だということだ。

まさにそれこそが、坐禅にとっての正見(正しいヴィジョン)ではないだろうか。





『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋