(前回の講義)

https://masenji.com/contents/16bb970ba540

 

今回は「然(しか)れば則(すなわ)ち、上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡(えら)ぶこと莫(なか)れ。専一に功夫せば、正に是れ弁道なり。」についてお話しします。

世間相場においては、上智下愚とか利人鈍者といった頭脳の働きの良し悪しが大きな問題になっていますが、坐禅するということに関してはそういう人間的知恵や才能の程度はまったく関係がないということがここで言われています。

もちろん、知恵や才能それ自体が悪いわけではありません。

そういうものがあってもいいのですが、坐禅はそれとは関係がないのです。

下手にそういうものに寄りかかると逆に坐禅の邪魔になることすらあります。

ここで、知恵とか才能のないことは坐禅をしない口実にはならないということです。

頭がいい人はいい人なりに、悪い人は悪い人なりに、坐禅をすればいいのであって、そういうことで両者の坐禅の優劣が決まるのではないのです。

専一に功夫するという志さえ起こせば、誰でもできるのが坐禅というものです。

『普勧坐禅儀』の始めの方に「なんぞ功夫を費やさん」という文があるのに、ここで「功夫」を勧めるような一文があるのは首尾一貫していないように見えるかもしれませんが、始めの「功夫」はあらためて悟りを目指すような修行でしたが、ここでの功夫は修証一如の坐禅の実践ですから、同じ功夫という言葉を使っていてもその内実が違っているのです。

坐禅は功夫の刷新としてあるのです。

専一、つまり専心一意の功夫そのもの=坐禅が、正しい弁道(道の実践)です。このように述べて、普くすべての人に坐禅を勧めているんですね。



●今回の動画配信