永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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仏教の根本的実践道である八正道は、それぞれに無関係な八つの実践項目がばらばらに寄せ集められたものではなく、八つの要素が相互に密接に連関し支え合いながら進展していく一つの有機的で包括的な修行として理解される必要があるということを前回述べた。

それは、われわれの人生というものには身(からだ)・口(ことば)・意(こころ)・職業・人間関係・衣食住・人生観・世界観といったさまざまな局面、要素があるがそれらがばらばらに切り離されているのではなく、それらすべてがひと連なりのまとまりとなってユニークな一人の人生を作っているのと同じ事情である。

それらの要素一つ一つが他の要素にリンクし、お互いに影響を与え合いながら、全体としてたった一つの人生が進展している。

たとえばどのような職業を選び、何を着し、どのような家に住むかということはとりもなおさず、その人の生き方全体の表現であり、人生観の具現なのだ。

日々何を食べているかはその人の人生全体に関わっている。

「わたしの人生に関係ないもの」としておろそかにしても良いものなど何一つとしてない。

実人生と別個に、あるいは人生の一部分(ワンピース)として仏道修行があるのではなく、実人生の全局面で修行する、あるいは実人生の丸ごと全体を修行として生きるのである以上、人生と修行とは相似であり相同でなくてはならない。

八正道において、お互いがお互いを前提にするというあり方で要素どうしが相互に含み合っているという意味で、その関係のあり方を「相摂(そうしょう)関係」と呼んでいる。

だから八正道の最後に正定が置かれているからといって、それが最初の項目である正見と遠く離れた関係にあると考えてはいけないのだ。

両者は相摂関係にあって親密につながっている。

正見が得られていることによって初めて正定が成り立つのであるし、正定によって正見が正しく働くことが可能になっているからだ。

しかしだからといって、正見から始まり正定に至るこの八正道の伝統的順番がまったく意味のない、単に便宜的なものでしかないというわけではない。

八正道が正見・正思から始まっているということには大きな意味があるとわたしは考えている。 

仏教の解説書では八正道はしばしば「戒・定・慧」の三学と対応づけられていて、正見と正思は「慧」、正業、正命は「戒」、そして正精進、正念、正定は「定」に相当すると説明されることが多い。

しかし細かいことを言うようだが、三学という修行道のまとめ方では戒から定へと進み、そして定から慧に進むというように修行の展開が構想されている。

つまり、先ず戒(良い習慣)によって生活を調え、次に定(瞑想行)によって心を調え、それによって智慧(解脱)にいたるという順序が考えられている。

流れとしては、戒→定→慧なのである。

こういう順番はどちらかといえば常識的には理解しやすい。

ところが、八正道を三学に対応させてみると、こういう順序ではなく、まず慧から始まり、戒、そして定という配列になっている。

慧→戒→定なのだ。

この順序立ては常識的にはなかなか理解しにくいところがある。

普通はそれを最終目標にして修行に励んでいくと思われている智慧が始めに置かれているからだ。

しかし、わたしはむしろこちらのほうの方が「仏教らしい」と思っている。

それは仏教が基本的にわれわれの常識や経験にそぐわない、カウンターインテュイティヴ(counter-intuitive直感でわかるものではない、直感に反した、の意)なものだと思っているからだ。

カウンターインテュイティヴな考え方の好例は「地動説」である。

われわれの日常経験ではどう見ても地球ではなく太陽の方がわれわれの周りを動いているように見える。

しかし事実はまったくその逆で地球の方が太陽の周りを回っているのだ。

しかも秒速約三十キロメートルという超高速で!そのように地動説はいかにもわれわれの経験や直感にはそぐわないし、それに反している、つまり、カウンター (反対の)インテュイティヴ(直感で理解できる)なのだが、われわれの経験や直感にかなっているように見える天動説の方が間違いで、地動説の方が事実なのである。

仏教もまた釈尊自身が「世の流れに逆らうもの」と形容したようにカウンターインテュイティヴな教えなのだ。

だから、わたしは一見すると常識で受け入れにくいような説の方が常識ですぐわかるような、あるいは直感にあうような説よりもむしろ「仏教らしい」と思うことにしている。

そういう仏教のカウンターインテュイティヴな特徴がこの八正道の順序にも表れているように感じられる。

それに前にも書いたが、八正道は釈尊の最初と最後の説法において説かれていることから見ても仏教において首尾一貫した修行道の基本モデルで あるといってよい。

だからその意味からも、三学の戒→定→慧モデルよりもこの八正道の慧→戒→定モデルの方を仏教の本来的標準型とするのが妥当なのではないだろうか。

もしそうだとすると、八正道の構成が慧から始まり、戒、定という順序になっているのは何故なのかを参究する必要が出てくる。

前回の論考でわたしは、八正道が八正道と呼べるためには最初の二つ、つまり正見と正思が他の要素にしっかりと浸透していなければならないという主張をした。

さらに、正見を「正しいヴィジョン」、正思を「正しい意思・意図」と解釈して、八正道全体を此岸から彼岸へと河を渡っていくプロセスのメタファーとして理解し、彼岸というヴィジョンが正見、そしてそこを目指して河を行こうという意思、決意が正思であるとした。

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋