永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」〜最清浄法界等流の坐禅〜2 】

だから単に、身体を動かしていればそれで行になるのではないのだ。

道元禅師は「身の結跏趺坐すべし、心の結跏趺坐すべし、身心の結跏趺坐すべし、身心脱落の結跏趺坐すべし」(『正法眼蔵三昧王三昧』)と言っている。

それほど徹底的に身心一如的、全身心的な行いでなければならないということだ。

この連載でも繰り返し言ってきたことだが、われわれの坐禅は「端身正坐を先とすべし」(『永平廣録 巻五』)という調身の工夫のなかに、調息や調心も同時に含まれているような「三調一如」の坐禅である。

ここにも、人間存在のもっとも根底をなしている身体的なものから、少しも離れないという行の立場が如実に表れている。

調身の工夫が、そのまま調息にもなっているという点に関して、一言述べておく。

昨年、曹洞宗北信越管区教化センター主催のセミナーで、ロルフィングというソマティック(=身体的)ワークの指導者である藤本靖さんと一緒に調息に焦点を当てたワークショップを行った。

そこで藤本さんが、「背骨の前側には脊椎を安定させるために前縦靭帯という組織があって、尻尾から後頭部まで全部の背骨の前側をつないでいる。そして横隔膜も背骨の前側につながっている。だから横隔膜が自由に動くためには、背骨の前側というのがちゃんと意識されて、まっすぐにつながっていないといけない。姿勢を調える上ですごく大事な深層筋である大腰筋とか、鼻息微通に関係してくる首の前側、のどの奥にある筋肉にもつながっている」という話をされたとき、わたしのなかで、「調身と調息が表裏の切っても切れない関係にあるということの解剖学的な根拠がここにあった!」と跳びあがりたいくらいの感動がこみ上げてきた。


先人たちは、おそらくこういう解剖学的なつながりなど知らないままに、調身がそのまま調息につながっていることを、体験を通して感得してきたのだろう。

このことを知ってから、わたしは坐禅指導において「背骨には前側と後ろ側があります。後ろ側は手で触れることができるし、眼でも骨が出っ張っているのが見えるので、『背中をまっすぐにしよう』と思うと、どうしても背骨の後ろ側を意識して、そこでまっすぐを取ろうとしてしまいます。でも、背骨の形をみればはっきりわかるように、体の重さを支えるのは後ろ側ではなくて前側であるようにデザインされています。背骨の前側は触れることはできませんが、自分の体重は背骨の後ろ側ではなく、前側で支えられていると思ってください。」という言い方をするようになった。

「ひだりへそばだち、みぎへかたぶき、まへにくぐまり、うしろへあふのくことなかれ。かならず耳と肩と対し、鼻と臍と対すべし」(『普勧坐禅儀』)という正身端坐の調身は、背骨の前側にある前縦靭帯を意識することに関わってい たのだ。

そして鼻息微通という調息の要になっている横隔膜は、この前縦靭帯につながっているのである。


だから、坐禅の時は鉛直の方向に走っている前縦靭帯につながって、水平の方向に走っている横隔膜が、上下にゆっくりと自律的に動いているということだ。

調身による縦のラインに支えられて初めて、横のラインの上下運動である調息が成立するのだ。

(ちなみに、本年の北信越管区教化センター主催のセミナーでは、藤本靖さんと調心に焦点を当てたワークショップをすることになっている。ここでも調身と調心がダイレクトに結びついていることを証する発見があることを願っている)。

正身端坐を強調する坐禅の真意を誤解して、「それでは、ただ身が坐っていればいいのか。そんなことを言うから坐禅が中身のない形だけのものになって形骸化してしまうんだ」という人がいる。

しかし、 身心一如で生かされて生きている人間が坐る以上、心を離れた単なる身だけが坐るということなどあり得ないし、心だけが身を離れて、何らかの姿形に現れることなく、どこかよそに存在するなどということも実際はあり得ない。

そもそも、重力との微妙な関係を保ち続ける正身端坐は、心が伴わなければ成り立つものではないということは、骨組みと筋肉で正しい坐相を刻々にねらい続ける営みに、一度でも真剣に取り組んでみれば自ずと明らかになるはずだ。


行には、それが何らかの身体的な行いであるということと並んで、その行い方には法に適った厳密な方(かた)が存在するという特徴がある。

それは、行ずるわれわれの側からすれば、人間の身勝手で恣意的な行い方を許さない、法の側からの厳しい限定、要求が課されてくるということだ。

わたしがよく引用する、『正法眼蔵 生死』の中の「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして」 という一節は、実は仏のかた、つまり真実の理法の側から催されてくるものに、こちらの都合を一切さしはさまず、全力を挙げてしたがっていくということであるから、自分勝手なやり方が決して許されない極めて厳しい決まり、規制があるということを暗に意味しているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋