永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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しかし、ここで言う惛沈睡眠蓋はもっと性質(たち)が悪い。

気持ちがくじけてやる気がしなくなった感じ、挫折感、退屈感、無関心、断念、どうしようもない無力感、懶(ものう)さ、意気消沈、抵抗感...といったもっと微妙で心の深いところにある、われわれが坐禅に取り組むときの全般的態度に関わっているのである。

だから必ずしも本人にエネルギーが本当に無いという訳ではないのだ。

ただそのエネルギーにアクセスができなくなっているだけという場合が多い。

その証拠に、条件が変わったとたんに、どこかに隠れていたエネルギーが再び現れだすことがある。

それはたとえて言えば、本人には全く興味のない買い物に、親に言われて嫌々ついてきた子供が「もう疲れた。動けないよ~」といってへたり込んでいても、「アイスクリームを買ってあげるよ」と言われたとたんに、がぜん元気になるようなものだ。

そういえば、野口整体の創始者である野口晴哉氏がよくこういうことを言っていた。

「スキーに行って重いものを担いでも、それが自発的なら疲れないのに、他人の荷物となるとすぐにくたびれる。ところがくたびれたと思っているところに一万円のチップが出ると途端にまた元気が出てくる。だから物が重いか軽いかということも、その人のその時のあり方で変わってしまう」と。

こういう例が示しているように実際に発揮されるエネルギーのレベルというのはその人が今自分の置かれている状況に対してどのような態度を持っているかに大きく左右されるということだ。

ちなみに野口氏には「自発的に行なえば楽しんで行えることでも、命令され、強制されて行えば疲れる。命令され、強制されることでも、自発的に受け入れるなら嬉しさがある。人間の行為における真実とは、その自発的であるか否かにある。人間が機械になりつつあることを防ぐ唯一のものは自発の行為に生くることである」という含蓄の深い言葉がある。

坐禅における惛沈睡眠蓋もこういうところから考えてみる必要があるだろう。 

今取り組んでいる坐禅を自分はどのように理解し、どのような態度で臨んでいるのだろうか?

その理解や態度が微妙な形で無気力や倦怠感をもたらしているのではないのか?

自分が自分に語っている物語(たとえば、「俺がこんなに坐禅に苦労しているあいだに、あいつは今頃~して楽しんでいるんだろうなあ。うらやましいなあ...。なんで俺はこんなことやらなくちゃいけないんだろう。こんなことやってて意味なんかあるんだろうか?」)が坐禅に必要な活力をどれほど消耗させ、削いでいることだろうか。

時にはその物語に「俺には坐禅をやる能力(資格)なんかない」、「自分のような人間には坐禅は難しすぎる」といった敗北者主義的ニュアンスが漂うこともあるだろう。

こうした思考はたやすく、挫折感、自己憐憫、無益感(自分が何の意味もない、くだらないことをやっているような気分)へと発展し、ますます活力を枯渇させていく。

こうした思考の流れに積極的に組することなく、その存在に気づき、手放していかなければ、活力の漏れを止めることはできないだろう。

坐禅は退屈なものだと思い込んでいるところからも、惛沈睡眠蓋が生まれてくる。

しかし、もともと退屈なことなど実は存在しない。

退屈というのは、こちらの心が作り出している主観的判断に過ぎない。

前回にも触れたように、坐禅しても、当初自分が望んだり期待したようなことが起こらないので物足りなく感じたり、自分としてはこれだけがんばってやっているのに自分にとって何の役にも立っていない感じが元になって惛沈睡眠蓋が醸成されていく。

あるいはそれとは逆に、「何もしないでじっと坐っているだけの坐禅なんか簡単、簡単。自分はうまくやっているさ」という安易な自己満足が元になって懈怠、そして惛沈睡眠蓋が生まれることもある。

「わたしの坐禅には何の問題もない、すべてがオッケー」と坐禅を甘く見て、そこにあぐらをかいて油断してしまうと、居眠りの方に流されてしまいがちになる。

時には、坐禅の中でふいに自分にとって未解決の重大な問題とか非常に不快な感情とかが、心の深層からあぶくのように湧き上がってくることがあるが、そういう時に湧きあがってきたものと向かい合うことを避けるために、いわば「逃げの一手」として眠り込むということが起こる場合もある。

自分がその問題や感情にきちんと向かい合うにはまだ時期尚早であるかもしれないので、こういう場合は繊細な注意が必要だ。

惛沈や睡眠が繰り返し起きてきても、それにめげないでできる範囲で坐禅を辛抱強く続けることが大切である。

自分の中の何かがそういった人生上の問題やそれにかかわる感情に直面するベストのタイミングが訪れるのを見計らってくれているから、それを信頼してその時が来るのを待ちつつ今は誠実に坐禅を続けていればよい。 

慢性的な興奮や緊張は人を大いに疲れさせる。

過剰に活発な活動は実際の疲労を覆い隠して見えなくさせるから、多くの人々は自分が深いところでいかに疲れているかに気づいていない(過労死がその例)。

坐禅の時、深いところに隠れていた蓄積された疲労が表に出てきて初めてそれに気づくこともある。

しばしば接心の最初の数日間に特に強く体験される惛沈睡眠蓋はこうした慢性的疲れからの回復の現れと言えるかもしれない。 

以上、坐禅の時に出会う惛沈睡眠蓋の諸相(さまざまな現れ方)を思うままに挙げてみた。

ここまで 書いてきて、惛沈睡眠蓋というのは坐禅中の単なる眠気の問題にとどまらない広がりと奥行きをもった大きな問題だということが実感されてきた。

惛沈睡眠蓋は、何か自分にとってチャレンジング(能力が試される)で困難な状況に立たされると、いつでもそこで尻込みし、そこから退却し始める傾向と深いところでつながっているのではないだろうか。

つまり、惛沈睡眠蓋というのは、現実がどうあろうとも、それときちんと向かい合うということを微妙な仕方で回避するための策略ではないのか。 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋