永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。
----------------------------------------------------------
【「只管打坐」「問題の解決」ではなく「問題の理解」へ 3 】
一見熱心に見えるかれらの問題点を、どう理解すればいいのだろうか?かれらは「自分の問題」の実相が、ほんとうは何なのかを知ろうとしないで、表面的な理解のままで、それを何とか解決しようと性急に動き出したがる。
坐禅をすれば問題が解決すると思っているので早く坐禅したがるのだが、そもそもその問題がどこから生まれているのかを深く知ろうとしない。
問題が何かを深く吟味しないまま、有効だと思う方法をとにかく適用しようとする。
しかし、実は仏教が提供しているのは、問題そのものがほんとうは何であるかをよく吟味し、深いところから理解することなのである。
仏教の実践もまた問題を深く理解するためになされるべきであって、それを抜きにして問題の解決のために行ったのでは、まったくの的外れになってしまう。
仏教の本を読めば、われわれの問題についていろいろ書いてあるから、もうそれで充分にわかったつもりになって、あとは実行あるのみ、と思ってしまうのかもしれない。
無明だとか煩悩、三毒、五蓋など、勉強熱心なかれらはそういう仏教のコンセプトは、大概みんな知っている。
しかし、ほんとうに自分のものになってはいないのである。
自分の身に引きつけ、からだでうなづいていない、と言えばいいだろうか。
長年の間に染み付いた「問題を解決する」というメンタリティから発する努力は、問題解決のために少しでも効果的な方略を、発達させるという形をとる。
方略さえ正しければ、必ず問題は解決されるはずだという信念がその前提になっている。
そのための適切な課題群を、設定しそれを一つ一つうまく遂行していくことが目指される。
そしてその課題(task)を、どれだけこなしたかということが評価の対象になる。
こういうあり方を、task-oriented(課題志向的)という。
アメリカで仏教に関心を持っている人たちの多くは、task-orientedである。
かれらはそうやって今の自分や、人生を作り上げてきたのだ。
だから仏道修行も同じような、task-orientedの態度で取り組んでしまう。
坐禅を一日何時間やっているとか、これまで接心に何回参加したとか、そういう量的な達成を強調するような人もしばしば見かけた。
しかし、かれらは畢竟どこへ向かってそういう努力をしているのだろうか?修行において、努力は充分しているが、どこへ向かってなのかはあまり問わない。
指導者の方も努力を強調するが、その方向性についてはあまり触れることがない。
これは実は重大な問題ではないだろうか。
車の行先があいまいなまま、アクセルを一生懸命踏んでいるようなものだからだ。
酷な言い方かもしれないが、それでは問題を解決すると言いながら、問題から逃げていることにならないだろうか。
とにかくここ(問題)ではないところへ行こうとしているだけだからだ。
アメリカにいるときよく「スピリチュアル・ジャーニィ(spiritual journey)」という言葉を耳にした。
「霊的な旅」という意味だ。
「自分は仏教に学びながらスピリチュアルなジャーニィをしているのだ」というような使われ方をする。
「約束の地」がどこだかよくわからないが、とにかくここではない、そこに向かって旅をするのだ。
こういう枠組みで修行している限り、そこには悪戦苦闘、骨折り、奮闘、もがきがつきまとう。
そしてその骨折りの苦痛は、自分がまだ約束の地にたどりついていないことを再確認させる。
まだ自分の努力が足りていないのだ! だからさらに奮闘し、もがきを重ねる、それがまた努力不足を再確認させ...という悪循環に陥ってしまう。
犬が自分の尻尾を追いかけているようなものだ。
わたしには問題(たとえば悩み)がある。
その問題を解決するためにはどこかへ行かなければならない。
修行というのはそのどこかへ向かって過酷な旅をすることだ。
こういう考え方は、task-orientedな考えを持っている人たちには、至極当たり前のことに思える。
この枠組みの中でも、それなりの努力を続ければ、それなりの変化は確かに起きる。
落着きが増したり、性格が穏やかになったり、辛抱強くなったり、優しくなったり......。
しかし、もっと努力すればそういう望ましい変化がもっとたくさん起こるだろうと考え、さらに努力を続ける。
いつかは理想の地にたどり着けることを夢見ながら。
旅が大変であれば大変であるほど、約束の地が素晴らしいものに思えてくるというのは人の情だ。
悟りや涅槃が、ほとんど達成不可能な高みにまで祭り上げられてしまったのも、そういう理由かもしれない。
こういうメンタリティで行っている旅人は、休息することができない。
休息すればあの「自分の問題」が追いついてくるからだ。
「問題を解決する」という、task-orientedなアプローチでは何をしようとしても、それは問題そのものからわれわれを引き離すことになる。
どこへ引き離すかと言えば「思考の世界」へ、である。
こういうカラクリ全体への洞察が生まれる時初めて、「問題の解決」ではなく「問題の理解」へと修行のパラダイムが転換する。
そしてtask-orientedな「習禅」ではないheart-centeredな「坐禅」ができる地点に立てるのである。
次回はここから話を始めることにする。
『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋