(前回の講義)

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今回は、「何ぞ自家(じけ)の坐牀(ざじょう)を抛卻(ぼうきゃく)して、謾(みだ)りに他国の塵境に去来せん。

若し一歩を錯(あやま)れば、当面に蹉過(しゃか)す。」のところです。

まず、「自家の坐牀を抛卻」するというのは、文字通りには「自分の坐るべき場所を投げ出す」という意味です。

本来の自己という最終的な落ち着き場所(畢竟帰)=自己の正体を見失って右往左往しているのが偽らざるわれわれの実態です。

聖書や法華経にも出て来ますが、本来の家を忘れて、ホームレスになっている放蕩息子の喩えを思い出します。

その精神的放蕩息子の右往左往のようすを、「他国の塵境に去来する」と表現しているのです。

狭い意味では、自己の正体であり仏行としての正しい坐禅から脱線して、人間業のあれやこれやの技巧に終始する習禅になってしまうこととも取れるでしょう。

 「一歩を錯る」というのは「自家の坐牀」を受けて、そこから他国へと足を一歩でも踏み出したら、大きな誤り、間違い(蹉過)になるということです。

蹉はつまづき、過はあやまちのいです。

この『普勧坐禅儀』のはじめの方に「毫釐も差有れば、天地懸に隔り」という表現がありましたが、それと対応しているのでしょう。

「当面」というのは直面しているということ。

実は自家の坐牀を離れることはできない道理であるのに、あたかも他国をさまよっているかのような、夢を見ているだけだということを指します。

自己に当面していながら、自己を見失って蹉過する、という念のいったことをわれわれはしでかしがちだから、くれぐれも気をつけよというお示しなのです。

坐禅は他国をさまよう夢から覚めて、自家の坐牀に坐っている当面を当面として、そのまま承当することだったのです。

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