「アテ」や「見込み」、「つもり」、「目的」、「効果」といった、自分が「つかみたいもの」を坐禅の中に持ち込むと、坐禅が坐禅になりません。たちまち只管打坐の坐禅ではない何か全く別の活動に変質してしまうのです。そういうものと坐禅とは両立ができない、共存ができない関係にあるのです。坐禅は「つかむ」ことではなくて、その逆の「はなつ」ことだからです。「ひろう」のではなく「すてる」ことだからです。

坐禅が実際にどういうものになるかということは、坐る以前の段階で自分が坐禅をどういうものとして理解しているか、頭のなかにどういう坐禅のイメージを描いているか、に大きく影響されます。坐禅がちゃんとした坐禅になるかどうかは坐蒲の上に坐る前にすでに決まっている、と言ってはいいすぎになるかもしれませんが、実際に坐禅する以前の問題として、その人が坐禅をどこまで正しく理解しているか、仏法にかなった正しい坐禅観を持っているかどうかということがきわめて重要です。それが坐禅に取り組む態度に直接響いてくるからです。

本を読んだか、テレビで見たか、指導者から習ったか、いろいろな経路があると思いますが、われわれは坐禅する前にすでに、坐禅とはどのようなものか、どうすることなのか、坐禅することで何がもたらされるのか……についてなんらかのアイデア、きつい言い方をすれば先入観、偏見、独断、思い込みを持っています。そして、坐禅はこうやりなさい、調身はこのように、調息はこうして、調心はこうやって……という誰かから与えられるインストラクション、つまり指図にきちんと従いさえすれば、自分が坐禅をする目的がいつかは――もちろんなるべく早いに越したことはありません――達成されるだろう、他の人にも起きたような素晴らしいことが――そういうレポートを耳にしたり読んだりしていて坐禅に関心を持つ人も多いでしょう――自分にも起きるだろうと熱い期待を抱いているわけです。

おそらくこういう態度で坐禅に臨む場合が多いと思いますが、あいにくこういう理解や態度で坐禅を始めては、坐禅が成立しなくなってしまいます。坐禅とはそういう一定のマニュアルに従ってからだやこころをコントロールすることではないこと、われわれが常識の枠内でイメージしているようなものとは全く違うものだということにまず愕然とし、驚く必要があります。さきほどの澤木老師の「坐禅はなんにもならん!」という強烈な表現も坐禅についての常識的な理解に揺さぶりをかけることをねらったものだと思います。

坐禅に関してこれまで知らず知らずのうちに身につけてきた思い込みや独断をともかくみんな脇に置いて、一度御破算にして、全くの初心者として坐禅に新鮮に、初々しく取り組んでいくことが大切です。そういう頭の「切り替え」がなければ、坐禅をいくら一生懸命にやっても、日頃やっているような凡夫的な努力の延長にすぎなくなります。道元禅師の言い方を借りれば、坐禅が「仏祖の法」ではなく、流転輪廻する「三界の法」になってしまうのです。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》
この『現代坐禅講義』を書いているとき、常に念頭にあったことは、仏法に則した坐禅観、つまり凡夫が少し「まし」になるために坐るのが坐禅ではなく、凡夫の生身のままで「一超直入如来地(いっちょうじきにゅうにょらいち)」するのが坐禅だということを、どれだけ説得力を持って文字にできるかということでした。わたし自身、坐禅を始めたときには、一生懸命に坐ることによって少しでも自分を高めようという考えでやっていました。そこには何の疑問も抱かず、あとはただ頑張ればいいのだと思っていました。そういう構え自身が仏法的には大きな問題なのだということがだんだんわかりかけてきたのは、しばらくしてからでした。単なる常識的な努力の量だけではなく、その方向性と質が転換することが大事だったのです。そのことを知ったことは、わたしにとって大きな転機となりました。やっていることは同じでも、その内的風景、味わいというものがガラリと変わったのです。そういう転機をもたらしてくれた様々な要因、つまり師匠、先輩、仲間、仏典、その他の無量無数の出来事には感謝のほかありません。そういう転機を計画的にうまくもたらしてくれるような方法というものは、残念ながらありません。時が熟するという言い方しかできないのではないのでしょうか?あるいは、「方法なき方法」とでもいうしかないもので、あとから振り返って初めて、それまでに起きたことのすべてが実は方法の一部だったとわかるようなものだからです。


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