永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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われわれは普通、瞋恚の対象の方に注意が固着しているからその対象をどうしてやろうかということにばかり心を使う。

そのことしか頭に浮かばない。

これが瞋恚に覆われている状態である。瞋恚蓋のワークは怒りの向いている対象の方ではなくて、自分が陥っている瞋恚という状態そのものを「回向返照」するところからスタートする。

これこそが仏教が説いている内観の道である。良い悪いの判断(たとえば怒りをもっている自分は悪い人間だと思う)をいったん差し控え(nonjudgmental)、短絡的なリアクション(たとえば怒りをもっている自分自身に対してカッとなる)を起こさないようにして(non-reactive)、瞋恚を注意の中に留めておく。

これが先ほど言ったembraceであり、五ステップBELLAのワークで言えば最初のB(Be)に当たる。

そこでは、自分の怒りについてあれこれ考えるのをいったん止めて、怒りそのものを身体感覚のレベルで感じるということが関わっている。

身体全体に注意を広げ、オープンでのびのびした、そしてできることならなるべくリラッ クスしたやり方でそこにある身体感覚や感じを受けとめるのである。

今、リラックスという言葉を使ったので少しわき道にそれるが、旧ソ連時代は国家機密とされていたロシア軍の訓練法・格闘技であるシステマの指導者北川貴英さんと怒りをめぐって「仏教とシステマ、それぞれの〈怒り〉の乗り越え方」という対談をしたことがある(北川貴英『人はなぜ突然怒りだす のか』イースト新書所収)。

かれも「怒りを鎮火するには筋肉のリラックスが大切だ」と言う。

貪欲蓋と比べて瞋恚蓋が働くスピードはかなり速い。

無意識の緊張が感情につながり、怒りをあっという間に発火させてしまう。さらに厄介なのは、無意識の働きは意思よりもずっと強く身体と心に働きかける力を持っている。

だからいくら「怒るまい」と意識で念じてもそれほどの効果がないのである。

無意識を超える影響力によって身体に働きかけるような工夫が必要で、そこでかれが勧めているのがシステマ独自の呼吸法である「ブリージング」である。

呼吸法と言っても至極単純で「鼻から吸って、口からフーッと音を立てながら吐く、これを何度か繰り返す」だけである。

これが怒りの火を消す「初期 消火法」としてとても有効なのだ。

ほんのわずかでも怒りを感じたらすぐにブリージングをするのであ る。

ここでも、働きかけるのは、怒りの対象にではなく、怒っている自分の方であり、さらには怒りという感情ですらなく、あくまでも自分の身体をリラックスさせようとしていることに注目したい。

北川さんは「怒りを収めようとするのも、怒りに駆られてしまうのも、意識が怒りにとらわれてしまっているという点では同じです。

あえて身体に意識を向けようとするのは、意識を怒りから切り離し、自分を客観視できるようにするためでもあります。」と言う。

わたしはこのブリージングをかれから手ほどきしてもらい自分でも実行している。

先日、システマの創始者であるミカエル・リャブコ氏が来日し東京でセミナーを開いた時、北川さんに招待していただいて参加することができた。

そこで、ミカエル さんから記念にかれの有名なストライク(手によるパンチ)を肩に頂戴した。

まさにいきなり隕石でもぶつかってきたような今まで味わったことがない強烈な衝撃を受けて思わずへたり込んでしまったのだが、そのときもとっさにこのブリージングを繰り返すことでこのショックに対処することができた。

恐怖やショック、悲しみなどあらゆる精神的な緊張、ネガティブな感情を感じたら、なにはともあれまずこのブリージングを行なうことで態勢を整え、そのうえでBELLAのワークを始めるとよいのではないだろうか。

「からだの教養」としてこのブリージングを身につけることをみなさんにお勧めしたい(ちなみに、わたしがお勧めするもうひとつの「からだの教養」は受け身である)。 

さて話を瞋恚蓋にもどさなければならない。

瞋恚蓋は貪欲蓋とともに、「魂のカフェイン」と呼ばれている。

あたかもカフェインを摂取しないと活力が湧いてこない人たち(カフェイン依存症)のように、自分が生きるためのエネルギー源、動機づけ、あるいは人生に取り組む熱意の源として、貪りや怒りに依存しているような人たちがいる。

このような人たちにとっては貪りや怒りのない人生はなんとも平板で、退屈で、孤独で、時にはそらおそろしいものにすら感じられることだろう。

しかし、仏教は、貪りや怒りがどれほど自分や周囲の他人と世界を傷つけ、壊しているかをよく見届けて、そういうものとは違うところから生きる意欲を引き出してくるようにと教えている(たとえば、慈・悲・喜・捨という四無量心とか布施・愛語・利行・同事という四摂法の実践など)。

瞋恚が自分の人生にどのくらいの損害をもたらしているか、どれほど人間関係を損なっているか、いかに自分の居心地悪くしているか...を冷静に計測してみることで、怒りを糧にして生きることが果たしてそれだけの価値があるのかどうかをじっくり反省するのだ。

いわば、瞋恚蓋を(反面)教師として別な生き方を模索するのである。

瞋恚を持っていること自体は個人的な過失ではない。

それは人が生きていることに伴う人生の当たり 前の一部である。

要はそれに支配され振り回されないことだ。

振り回されると瞋恚が蓋となってしまう。

たとえ瞋恚があっても、それが蓋とはならず、それから自由であり得るというスタンス(構え、姿勢)を学ぶ道が坐禅の中に開かれているのである。

次回は五蓋の第三、惛沈睡眠蓋を探求する。

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋