(前回の講義)

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今回は、「況んや復(また)、指竿針鎚(しかんしんつい)を拈ずるの転機、払拳棒喝(ほっけんぼうかつ)を挙(こ)するの証契(しょうかい)も、未(いま)だ是れ思量分別の能く解(げ)する所にあらず。

豈に神通修証(じんずうしゅしょう)の能く知る所とせんや。」のところをお話しします。

まず、「指・竿・針・鎚」とか「払・拳・棒・喝」というのは、禅匠たちが、そういったさまざまな手段を用いて弟子たちを自由自在に指導した先例のことをさしています。

それは人間的な思いはからいや分別知識で理解できるようなものではないことがここでは強調されています。

禅の指導法が常識から見れば、理解を超えた不思議なものに見えるのは、仕方のないことです。

それはその時その場の師匠と弟子の親密な間柄での自発的に起きた「事件」なのですから、傍観者にはうかがい知ることができません。

神通力によってもアクセス不可能な世界です。

電線と電線が触れ合った時に起きるスパークのようなものですから、その時その場の生き生きとしたライブで当事者のみが味わえるものです。

そして、そういうことが起こり得るのもやはり普段の坐禅で培われた「力」によるのです。

●今回の動画配信