永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」「仕切りのある心」から「統合されている心」へ1 】

「坐禅してもなんにもならん」というのは、澤木興道老師が残した数々の「名セリフ」の中でも、特によく知られているものの一つだ。

アメリカにいる時、参禅者から「坐禅したらどういうベネフィット(恩 恵、利益)があるんですか?」という質問をしばしば受けた。

かれらの中には、日本人のように本当は聞きたいのに遠慮して、あるいは周りをはばかって、あえて聞かないでおくというような人はあまりいない。

わざわざ時間とエネルギーとお金を割いて、足を運んできているのだから、知りたいことはちゃんと聞いておかねば、というストレートで熱心な人たちが多いのだ。

自分のすることに、どんな結果が伴うのかをはっきり知っておきたいというのは、人情としては当然のことだ。

だから、「坐禅したらどんな得があるのか?」という質問を臆面もなくするようなアメリカ人は、損得勘定しか頭にないガリガリの功利主義者だと言ってしまうのは酷な話だと思う。


それはともかく、こういう質問を受けた時にはわたしはよく、澤木老師のこの名セリフを持ち出して、 「わたしが修行した安泰寺の澤木老師はZazen is good for nothing.と言っている。」と答えていた。

それを聞くなり笑い出す人もいれば(ジョークだと思ったのだろうか?)、「What(何だって)!?」と怪訝な顔をして首をかしげる人、「That’s nonsense!(馬鹿げてる)」と憤慨したような顔をする人、......と反応はいろいろだったが、この坐禅の無功徳性についてのズバリそのものの表現は、かれらをとても驚かせるものだった。

澤木老師の法嗣である、内山興正老師が澤木老師のこうした名セリフにコメントをつけた『宿なし興道法句参 澤木興道老師の言葉を味わう』(大法輪閣)という本では「なんにもならぬ」という章題で、 「坐禅してなんになるか?―ナンニモナラヌ。―このナンニモナラヌことが耳にタコができて、本当にナンニモナラヌことをタダするようにならねば、本当にナンニモナラヌ」という法句が紹介されている。

「老師に随待して坐禅していれば、ちっとはマシな人間になれましょうか?」と内山老師がたずねると、澤木老師は「いや、いくら坐禅しても、なんにもならぬ。わしだって坐禅したから、こんな人間になったのではない」とお答えになった。

しかし、内山老師は「老師は口ではああ言われるけれども、やっぱり坐禅していればちっとはなんとかなるだろう」と思ってずっと坐禅修行したけれどもけっきょく「本当になんにもなっていなかった」ことがよくわかった、という。

そしてコメントの最後に「スミレはスミレの花が咲けばよし。バラはバラの花が咲けばよし。スミレがぜひともバラの花を咲かせねばならぬと思わなくてもいいんだ」と決着がついたと書かれている。 


坐禅の「なんにもならなさ」を、端的に指し示す澤木老師のこの言葉は、坐禅をしてそれと引き換えに、何かを手に入れようとするわれわれのような勘定高い、損得根性丸出しの凡夫をギクリとさせ、うろたえさせる素晴らしい力を持った法句だと思う。

しかし、それだけにこの言葉が浅く理解されたままで、一人歩きを始めるとはなはだまずい、悪しき影響を及ぼしかねないのである。

その危険性にはくれぐれも注意しておかなければならない。

アメリカや日本で、只管打坐の坐禅を修行している人たちの中に、この言葉に感銘を受けるのはいいのだが、それがどういう地盤で言われていることなのかにまったく思いを致さず、それを文字通りに受け取って金科玉条にしてしまい、「何も目指さずただ坐るのが只管打坐だ」と、坐禅がもたらしてくれる功徳や、坐禅が拓いてくれる素晴らしい世界といったことに、積極的に眼を向けることを頭からタブーのように思っている人を時々見かけることがある。

そういうことについて本当は知りたいし、関心を持っているのに、何かそのことについて考えるだけでも、罪深いことでもあるかのように思って、自分に不自然な抑圧をかけている何人かにアメリカで出会ったことがあった。


澤木老師が「坐禅してもなんにもならん」と言ったとき望んでいたのは、決してそういう受けとめられ方ではなかったはずだ。

「何かを物欲しそうに探し回っているようなせせこましい態度では、ひろびろとした大乗の坐禅はできないぞ」というのが、本来の趣旨であったのに、その言葉が解放ではなく、逆に縛りとなってその人の坐禅を、かじかんだものにしてしまったのだとしたら、まことに不幸なことだと言わねばならない。

人間は言葉によって、解放もされるが呪縛もされるのだ。

「なんにもならない」坐禅をそのまま承当し、「それをなにかにしようという〈つもり〉を一切持たず」に坐禅に徹底する、宗門の言葉で言えば「無所得無所悟にて端坐して時を移す」(『正法眼蔵随 聞記』)。

われわれにとっては何の意味もない、ナンセンスとしか思えない、無益この上ない営みに、精を出していることそのものが、同時に、われわれの意識を越えたところで、とても尊いものが知らず知らずのうちに培われているということが起きている。

それが坐禅の功徳として、思いがけなくこちらに恵まれてくる。

 

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋