永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

----------------------------------------------------------

 澤木興道老師は「仏法は無量無辺―おまはんのおもわくを物足りさすものであろうわけがない」、「仏法は広大無辺。キメてしまったらアタラナイ。鱈の干物のようなものではない。生きている魚にキマッタ形はないんじゃ」とズバリおっしゃっているが、坐禅の当体もまた無量無辺、広大無辺であるからわれわれの概念の物差しでは「はかりしれない」のだ。

だから文句なしにいただくよりほかない。

「打坐を打坐と知る」というのはそういうことではないだろうか。

このことをしっかりと踏まえたうえでなら、チョイスレス・アウェアネスという一視点から只管打坐の坐禅を検討することも許されるであろうし、またそれなりに有益なことであろう。 



たいていの瞑想法は何かを瞑想や集中の対象としてあらかじめチョイス(選択)した上で、それに対して観察や注意集中といったことを行うようになっている。

例えば、南方仏教の瞑想行にとって非常に重要な典拠とされている『サティパッターナ・スッタ(四念処経)』では、その対象について次のように記されている。

(一)身(身体)(1)長い呼吸、短い呼吸、全身を感じて呼吸、静めて呼吸を観察(安般念)、内・外・内外から身体の中に生まれてくる現象の生・滅・生滅を観察(生滅随観)(2)歩きながら、立ちながら、坐りながら、横たわりながら、あらゆる行動をしながら観察(威儀路観)(3)身体の各部分を観察し、種々の不浄物で満たされていると観察する(厭逆作為)(4)身体には四元素があると観察する(四界差別観)死体が朽ち果てる過程を想像して、自分の身体がその運命を逃れられないと見る(不浄観)。

(二)受(感覚)(1)快、不快、どちらでもない感覚を観察する。内・外・内外から、感覚の中に 生まれてくる現象の生・滅・生滅を観察(生滅随観)(2)肉体的な快、不快、どちらでもない感覚を観察する(3)肉体的でない快、不快、どちらでもない感覚を観察する。

(三)心(1)貪りのある・ない、憎悪のある・ない、迷妄のある・ない、集中した・しない、広大な・でない、最高の・でない、統一された・されていない、解脱した・していない心をそれと知る。内・外・内外から、心の中に生まれてくる現象の生・滅・生滅を観察する(生滅随観)。

(四)法(1)五蓋(欲望・悪意・惰性と無気力・動揺と後悔・疑念)の有・無とその生・滅・滅尽を知る。内・外・内外から、諸法の中に生まれてくる現象の生・滅・生滅を観察(生滅随観)(2)五蘊とその生・滅を知る(3)十二処とその束縛、その束縛の生・滅・滅尽を知る(4)七覚支とその生と完成を知る(5)四聖諦を知る〈1〉苦諦生・老・死・憂い・悲しみ・苦痛・苦悩・悶えを苦と知り、それらがなくなることを求めても得られないことを苦と知り、五蘊が苦しみと知る〈2〉集諦十二処×五蘊の一つ一つの苦集を知る〈3〉滅諦十二処×五蘊の一つ一つの苦集滅を知る〈4〉道諦八正道を知り、内・外・内外から、自分の中に生まれてくる現象の生・滅・生滅を観察。

...とこのように瞑想の対象が事細かに選ばれ、分類され、それを系統的に「観ずる」ようになっている。

このきわめて網羅的なチョイスのリストを眺めるだけで、われわれのしている坐禅がいかにそれとは違った前提に立っているかを実感できるのではないだろうか。

坐禅がこのようなチョイスの複雑化とは逆のチョイスレスという簡素化の方向に向かっていることは間違いない。



道元禅師の『普勧坐禅儀』に「念想観の測量を止(とど)む」と明確に記してあるように、坐禅においてはそこに「○○観法」というような坐禅にとっては「外部からの貼り付けもの」を一切持ち込まないのである。

そういう「手(手段・方法)」を一切用いないのが坐禅の特徴だと言ってもいいだろう。

そのことをわたしは英語でmethod of no method(無方法という方法)と言っていた。

坐禅についての優れた解説書である橋本恵光老師の『普勧坐禅儀の話』には、「念」とは常思、すなわち長久に何かについて思いを凝らし忘れないことで、自分がこれぞと選び決めた一つの法門を心に憶持して失わないこと、「想」とは取像の意で、日輪や月輪を想像したり、浄土の様子を思いやったり、死人や骸骨などを目前に観るが如くに思い浮かべ、これを心から失わないように訓練すること、「観」はつまびらかに視るの意で、落ち着いて智慧を充分に働かせてものごとを明確に見極めること、だと説明されている。

通常は、選ばれた対象についてこういう念・想・観をするのが坐禅だと思われているが、道元禅師ははっきりと 「坐禅ではそういうことは一切しない。してはならない。」と書いている。そういうことをするのは「習禅」であって「坐禅」とはまったく別の営みになるからだ。

橋本老師の言い方では「坐禅ひとつに念想観を使いはたし」ているので、それ以外の念想観の営み、作業が入り込む余地は残されていないのである。 



昔、『サティパッターナ・スッタ』に従った瞑想行をしている修行者がわたしが住持をしていたパイオ ニア・ヴァレー禅堂の坐禅会にやって来たことがある。

かれはわたしが正身端坐の姿勢で坐ることを強調し、それを最優先にして調息や調心もそれとの関係で説明するのを聞いて、「それならあなたの言っている坐禅というのは『サティパッターナ・スッタ』に説かれている四念処のうちの最初の『身念処』 に当たるのではないか?」と質問してきた(前述した『サティパッターナ・スッタ』の概略のなかの「威 儀路観」をおそらく念頭に置いていたのだろう)。

わたしは、「なるほど。わたしの説明の仕方は身 に関しての説明が大半を占めているので、それをそのまま聞いていたら、そう思うのも無理はないかもしれませんね。でも実際に、正身端坐の坐禅をしている時には、四念処のうちの『身』だけではなく、『受』も『心』も『法』もすべて坐禅の射程範囲に入っています。正身端坐というのは単に身体の外形的姿勢の問題ではなく、今ここでどういうあり方をしているかという丸ごと全体の生きる姿勢・態度・状態を問題にしているのです。ですから、坐禅ではあなたのいう四念処をゴールとして意図的にめざしているわけではありませんが、結果としてそれをまとめて一気におこなっているし、さらに言うなら四念処的な要素を内に含みつつもそれをはるかに越えているも のだと思いますよ」と返答した。



『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋