永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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読者の皆さんにもぜひこの本の邦訳を読んでもらいたいが、前回からの流れでこの本から特に引用しておきたい部分をいくつか挙げておこう。 


・息を素直に迎え入れる人は、支配しようとか執着しようとか押しのけようとかしない生き方をしています。これははたしてやさしいことでしょうか?呼吸の仕方にはその人の人生への取り組み方、生き方、人生にはつきものの変化への対応の仕方が、きっちりと反映されているのです。 


・私たちは成長とともにいつの間にか、のびのびとやっていた呼吸を改変し妨害するようになってしまいました。不自然だったり無理があったりするやり方をもちこんでも、本来の自然な呼吸に目覚めるプロセスをますます混乱させる役にしかたちません。私たちに必要なのはなにか別の呼吸を創りだすことではなく、心して眠っている呼吸に表に出てくるよう誘いかけることです。


 ・スペクトルの片方の端にあるのが無意識のうちに行われる不随意呼吸で、もう一方の端にある呼吸が、ヨーガ行者の行う古典的呼吸法など意志の力で制御調整されるものです。この両極端のあいだにあるのが「本来の」呼吸です。この本来の呼吸にアクセスするためには、まず自分の呼吸のプロセスに意識を持って行き、これを五感で感じられるようにならなければなりません。つまり意識していないものを意識する必要があるのです。


ドナさんは随所で、多くの呼吸法の本にありがちな「これこそがベストな呼吸法だと言えるような呼吸法が存在する」という狭量な考えを批判し(「どのような呼吸方法も必ずや病理的であり、呼吸のダイナミクスを反映していない」)、自分がどんなふうに呼吸を制約しているかを見極めて、それをやめることができれば呼吸はおのずとのびのびしたものになるという、わたしが前回論じた「調息ではない調息」と同じアプローチを強調している。


そして、呼吸を細工して変える方法ではなく、自分が呼吸を抑えている理由は何かを探って、呼吸を縛っている鎖をはずすさまざまな稽古法を紹介している。


そして、息を抑えてしまう呼吸方法の根本的な原因は、無意識のうちに人生の行方を制御し操作しようとしている根深い欲望なのだという洞察へと導こうとしている。


わたしは、ドナさんのこういうやり方こそが坐禅に相応した息の自然を深める工夫ではないかと感じているので、いろいろ手元にある呼吸に関する本の中でも、彼女のこの本が最も参考になっているのである。


さてここで、前回とりあげた『永平廣録』巻五に示された道元禅師の調息に関する法語にもどることにしよう。


今まで書いてきたドナさんの本のことはこれからの議論の伏線になっていると理解していただきたい。


この『調息法語』(わたしが勝手にそう呼んでいるだけであくまでも「仮称」である)には三つの調息の法が順に述べられている。


まず「大乗調息の法」で「この息は長く、この息は短しと知る、息、丹田に至り、また丹田より出ず。出入異なるといえども、ともに丹田に依って入出す。無常さとりやすく、調心えやすし」


次に「天童如浄禅師が説いたとされる調息の法」。


「息入り来たって丹田に至る。しかありといえども従来の処なし、ゆえに長からず短からず。息出でて丹田より去る。しかありといえども得去の処なし。ゆえに短からず長からず」。


そして「道元禅師の調息の法」。


「大乗にあらずといえども小乗と異なる。小乗にあらずといえども大乗と異なる。出息、入息、非長、非短」


 道元禅師がこの法語においてこのような順番で調息の法について述べられた真意は那辺にあるのか、われわれは審細に参究しなければならない。


三つの調息の法のどこがどう違っているのか?おそらく、「大乗調息の法」では言い足りないところがあるからこそ「如浄禅師お示しの調息の法」を引用し、さらにそれでもなお言い足りないところがあるからこそ、道元禅師ご自身の「調息の法」を開陳されたのだろう。


そこをどう理解するかという問いがわれわれに突きつけられているのである。


まず最初は「大乗調息の法」であるが、これはすぐ前のところで「小乗の人は数息を以て調息とす」と言ったのを受けて、それに対して「大乗調息の法」はこのようであると説き起こしているのである。


それは「この息は長く、この息は短しと知る」と言われているように、呼吸していることが当人にはっきり自覚されている(「知る」)ことがポイントになっている。


もちろん、ここではどういうふうに呼吸しなければならないという特定の呼吸の仕方が問題になっているのではない。


ただ長い息のときは長いと、短い息のときは短いと、その時その時の息をありのままに知るだけなのだ。


精神の集中を図るために自然な息に、わざと人為的な数をつけて数える(「数息」)というような造作(「自調の行」)をしないのである。


『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋