永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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次に、最初の対処法がうまくいかない場合は、釈尊は「それらの思いの欠点をつぶさに見る」ことを勧めている。

これは不善な思いから注意をそらすのではなく、その不善な思い自身を注意深く観るということだ。

「身を飾るのが好きな、若い女性や男性が、自分の首に蛇の死骸や、犬の死骸、人間の死骸が首にぶら下がっていれば、怖がり、恥じて、気分が悪くなるようなものである」という比喩で説明されている。

これは思考にあわてて背を向けるのではなく、くつろいだ状態で思考と出会い、それをまっすぐに観るという作業を意味している。

それを通して、無理矢理に思考を消し去ろうとするのではなく、当人自身が心の深いところで嫌気がさし食傷して(「怖がり、恥じて、気分が悪く」なって)、自然にその思いから厭離していくという運動が起こるのである。

わたしは昔、ある接心で、しつこく湧いてくる或る思い(性的なファンタジー)をなんとかしようと悪戦苦闘していた(今から考えると、その実、それを楽しんでもいたと思う)が、ある時、そういう劣情をもてあそんでいる自分の姿に思いが至り、つくづく嫌気がさしてきた。

そうするとどういうわけか、止めようとはしていないはずなのに、それが鎮まっていったという出来事があったことを思い出す。

さて、このやり方でも功を奏さない場合は、釈尊は今度は「それらの思いに心を遣わず、注意を払わないようにする」ことを勧めている。

われわれが坐禅を指導する場面では、思いに対しては、最初から「注意を向けないように」という言い方をする場合が多いのではないかと思うが、釈尊の場合は、まず思考そのものをよく見つめて、その不善さをよく知って、その後に初めて注意を向けないようにするという具合に手順を踏んでいる。

そうして初めて、不善な思いにはもうこれ以上関わらないという決意が確立して、その思いが納得して消えていくということが起こる。

そこではもう思いの吸引力が弱まっているから、それが容易にできるのである。

曹洞宗の伝統では、坐禅中に湧いてくる思いに対しては「追うな、払うな」という表現で、考え事に耽(ふ)けるという一つの行き詰まり、そして考え事と争うというもう一つの行き詰まりに陥らない「中道」のあり方を説いている。

そのこと自体に間違いはないとわたしは思っているが、この言い方だけでは、実践上不十分なのではないかと考えてきた。

不十分というか不親切というべきか、まだまだ言われるべきことがあるのではないか、ということだ。

もちろん、「そこから先は坐禅修行者自身に自分で探求させるべきだ。あえて言上げすべきではない。まわりで親切めかして、とやかくと余計なことを言うのは間違いの元だ。」というのも十分に根拠のある意見だと思う。

しかし、今回紹介した経典に見るように、釈尊が懇切丁寧に「追うな、払うな」の詳細を説いている文献がある以上、それから学ばない手はないのではないだろうか?

「追うな、払うな」にせよ、また内山興正老師の造語である「思い の手放し」にせよ、難しい専門用語ではないから、われわれは一見わかったように思ってそのまま素通りしてしまっているのではないか。

浅い理解(あるいは、間違った理解)のままで自分にはそれが実践できていると思い込んではいないだろうか?

「思量箇不思量底」とか「非思量」といういかにも難解な術語をブラックボックス化させないために、われわれの先人たちが、「追うな、払うな」とか「思いの手放し」という平言葉の平易な表現を編み出してくれたのだ。

それを継承したわれわれがもしかしたら「追うな、払うな」や「思いの手放し」を ブラックボックス化させているのではないか。

単なるスローガンにしてしまってはいないか。

道元禅師 の「道得」という貴重な教えを受け継いでいるわれわれとしては、「言わく言い難し」のところで腰を下ろすのはなく、そこから立ち上がってあえて言上げしていく一歩を踏み出すべきだと思う。

「追うな、 払うな」や「思いの手放し」の実際に向かって、きめ細やかに正確に、言葉にできるぎりぎりの限界点まで肉迫していくのである。



さて話を経典にもどそう。

「それらの思いに心を遣わず、注意を払わないように」しても、まだ不善な思いが去らないようなら、釈尊は「それらの思いを形作る思考の形成作用を緩めるように意を注ぐ」 ようにと勧めている。

この表現が正確に何を意味するのか、実は今の時点では確証がないのであるが、おそらくは、浮かんできた思いそのものを問題にするのではなく、その思いを産生している母体のようなものに目を向けるということではないだろうか?

思いが大地に生えた草のようなものだとすると、それをはぐくんでいる大地のようなもの、あるいは思いの「根っこ」にあたる潜在意識下の情報処理 プロセスを指しているのではないか。

仏教で「心地」と言われていることか?

思いを発生せしめている地盤そのもの、頭の中でぺちゃくちゃと独り言を言わせている、思いの背後(?)にあるものへと目を向けていくと、その副次作用で思いがだんだんスローダウンしついには止まってしまうようなことが起きるのである。

読者のみなさんも実地に試して確認していただきたい。

次回は、引き続きこの経典へのコメントから始めたい。

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋