永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」45 〜「マインドフルネス」と坐禅(2)〜 最終回 】

前回に引き続き、現在さまざまな分野で話題になっているマインドフルネスと伝統的な坐禅の異同という問題について考察してみよう。

最初に断っておくが、ここで言うマインドフルネスは仏教の伝統の中のマインドフルネス(パーリ語の原語はサティ、漢語では念)ではなく、あくまでも心理療法の現場やビジネス界といった世俗的な文脈で応用されている世俗的マインドフルネスのことである。


最近、アメリカで精神科医をしている久賀谷亮という人の書いた『世界のエリートがやっている最高の休息法―「脳科学×瞑想」で集中力が高まる』(ダイヤモンド社)という本を坐禅会に来ている女性参禅者からいただいた。

そこには、「マインドフルネスはアメリカで一大ブームを引き起こしていた。……(中略)……グーグル、アップル、シスコ、フェイスブックなど世界を代表する上位企業でも次々とマインドフルネスが導入されているし、一流の起業家・経営者たちがその実践者であることも知られている。

あのスティーブ・ジョブズがメディテーション(瞑想)に傾倒していたことはあまりにも有名だ。セールスフォース・ドットコムのマーク・ベニオフ、リンクトインのジェフ・ウェイナー、ホールフーズのジョン・マッキー、ツィッターなどの創業者エヴァン・ウィリアムズ、大手医療保険会社エトナのCEOマーク・ベルトリーニなど枚挙にいとまがない。」といったことが書いてあった。


実はわたしは、今年の六月のアメリカ滞在中に、この引用文の中にあるフェイスブックとセールスフォース・ドットコムの本社の中に入れてもらって、そこで働いている人たちに坐禅の指導をしてきた(もう一カ所はシアトルにあるスターバックス本社。ここでは二時間の坐禅ワークショップをやらせてもらった)。

わたしが勤めている曹洞宗国際センターの新しい試みとして、西海岸にあるマインドフルネスや瞑想に関心のありそうないくつかの大企業に、ある人を介して、「あなたのところで、関心のある社員の人たち向けに、日本から来た禅のお坊さんによる禅の話や指導をさせてもらえませんか?そういうことに興味はありませんか?」と「ダメもと」で打診してもらったところ、なんと三社が門戸を開いてくれたのである。

いずれも名の通った大企業ばかりだったので頼んだこちらの方が驚いてしまった(世事に疎いわたしはセールスフォース・ドットコムという会社のことはそこに行く直前まで知らなかった)。


こちらがお願いして平日にそういうことをやらせてもらうのだから、「やっていただく時間はお昼休みの一時間でお願いします。会場は適当なスペースを用意します。あなたの目の前でランチを食べる人がいたり、話の最中に人が出入りするでしょうが、気を悪くしないようにしてください。こちらでメールやチラシを作って告知をしますが、当日何人来るかは保証できません。」といった向こうの言い分は至極当然だ。

わたしもそういう状況を念頭において、本番に臨んだのだった。

担当の人(三社とも若い女性だった)の案内で会場に行って驚いた。

わたしの話を聞きに来る人が続々詰めかけてくるではないか。

けっきょく、フェイスブックでもセールスフォース・ドットコムでも、事前に用意した椅子が足りなくなるほどの盛況で、どちらも一〇〇名前後もの参加者が集まってくれた。

それにランチを食べたり途中で出ていく人はほとんどいなかった。

みんな非常に熱心に話を聞いてくれて、話の終わった後にはわたしの前に質問のための行列ができたくらいだった。

彼らの多くは、もうすでにマインドフル瞑想の実践を日常的に続けてきているそうだ。

それをより深めたい、その実践の背景にある哲学をもっと知りたい、という思いでやってきているようだった。

その熱心な態度には圧倒される思いだった。


マインドフルネスがこのように熱心に実践されているのは、それがもたらすさまざまな効果が期待されているからだろう。

前掲の本によると、マインドフルネスの効果として「1.集中力の向上―一つの事に意識を向け続けることができるようになる。2.感情調整力の向上―ストレスなどの刺激に対して感情的な反応をしなくなる。3.自己認識への変化―自己へのとらわれの現象、自己コントロール力の向上。4.免疫機能の改善―ウィルス感染などに対する耐性、風邪を引きづらい。」といったことが期待されているという。


今流行中のマインドフルネスは、一言で言えば「評価や判断を加えずに、いまここの経験に対して能動的に注意を向けること」と定義される。

そのような特別な注意のスキルを身につけることで、上記のような効果がなぜ得られるのかということが、今や、マインドフルネスの本家である仏教によってではなく、脳科学によって科学的に説明され実証されつつあるのだ。

マインドフルネスは、もはやその起源である仏教によってサポートされなくても、宗教性を排除した世俗的な実用的メソッドとて、それ自身で独立に意味を持ちうるようなものになりつつある。

現に前掲書では、マインドフルネスは「脳の休息法」であると捉えられている。


ここには宗教性の入る余地はどこにもない。

実力主義、競争主義のアメリカでは「すばやく仕事をこなしたり、効率よくお金を稼いだりする方法は知っているが、立ち止まる方法についてはこれまで考えたことがなかった。アクセルはあるがブレーキのない車のようなものだった。そんなとき、はるか昔に東洋から持ち込まれたマインドフルネスが再発見された。休息法を知らなかったアメリカ人たちは『これぞ自分たちが求めていたものだ!』と言わんばかりに、これに飛びついた」とマインドフルネス流行の背景についての説明がなされている。

必ずしもこれが唯一の理由だとは言えないと思うが、確かにその一面は捕えているだろう。


使いすぎている脳を、うまく休めることができれば「脳疲労がすぐ消えて、頭が冴える」と、自分の人生をより良いものに向上させていく有効なメソッド、スキルとして科学のお墨付きを得たマインドフルネスを、自分の手に入れようとみんなが躍起になるのも無理はないのである。

最近、マインドフルネスと脳科学の関連で、よく耳にする言葉が二つある。

その一つは「デフォルト・モード・ネットワーク」である。

これは「意識的な活動をしていない時に働く脳の回路」のことだ。

脳がアイドリング状態、つまりぼーっとして、心がさ迷っているときに働く回路のことで、普通の人は一日の半分以上をそういう状態で過ごしているという。

そしてデフォルト・モード・ネットワークが働いている時には、脳の全エネルギーの六〇~八〇%が消費されているらしい。

したがって、脳を休めるにはデフォルト・モード・ネットワークを使いすぎないようにしなければならないのだが、マインドフルネスに習熟すれば、雑念を抑えることができるようになるので、脳のエネルギーを無駄遣いするのを防ぐことができる、だからマインドフルネスは最高の脳の休息法である、というわけだ。


もう一つは「脳の可塑(かそ)性(脳が絶えず自らを変化させ得るということ)」という言葉だ。

その文脈で、マインドフルネスは「脳の一時的な働き具合だけでなく、脳の構造(容積や密度など)そのものを変えることができる」と言われている。

マインドフルネスの訓練プログラムを、八週間にわたって実践したところ、大脳皮質の厚さが増したり、老化による脳の委縮に対しても効果があったという報告がなされている。

このように、マインドフルネスが脳の働き具合だけでなく、脳のつくりそのものを変えることができるのだとすれば、単に脳の疲れを取るといった対症療法ではなく、疲れない脳、ストレスに強い脳をつくりだすというより根本治療になるということだ。


伝統的な坐禅に慣れ親しんで来ている人は、ここまで書いてきたような、きわめて実用性重視のマインドフルネスの論調には違和感、あるいは不快感を持ったかもしれない。

「そんな効果をアテにしてやるような俗な瞑想と、無所得無所悟の神聖な坐禅とはまったく別物だ。混同されては迷惑だ。」と思われた人もきっといるに違いない。

マインドフル瞑想に大きな関心を抱いているのは、現在のところ、伝統仏教の僧侶ではなくて、圧倒的に、医師、看護師、セラピスト、ソーシャルワーカー、矯正施設職員、コーチ、教師といった、現場に山積み状態の問題を解決するのに少しでも役に立つ方法を切実に求めている人たちだろう。

そういう人たちは、伝統仏教がかれらの直面している問題や課題の解決に役に立つものだとはまったく思っていないし、そもそも宗教的なものを現場に持ち込むことが許されない場所で仕事をしている。

だから、宗教性を排除して、世俗的場面で問題なく使うことができるようにデザインされたマインドフルネスでなければならないのだ。


わたしは伝統的な坐禅はそのままの形では、直接的にかれらの役に立つことはできないだろうと考えている。

そして、それはそれでいいし、むしろそうでなければならないのである。

マインドフルネスにはマインドフルネスの、そして坐禅には坐禅の果たすべき役割がそれぞれにあるのであって、坐禅すれば何でも解決するはずだと単純に決めつけるのは、坐禅を万能の魔法のような、あり得ないものに祭り上げてしまう危険性がある。

そして、坐禅しても問題が解決しないのは坐禅を正しくしていないからだ、とか、坐禅がやり足りないからだ、といったさらなる決めつけを生むことにつながる。

マインドフルネスと坐禅では、扱う問題がそもそも違っていると考えたほうがすっきりするのではないだろうか?


先日、曹洞宗総合研究センター主催の学術大会で「只管打坐とマインドフルネスとの対話~一仏両祖が目指した坐禅とは~」と題する講演とパネルディスカッションが開かれた。

テーラワーダ仏教の指導者スマナサーラ長老、マインドフルネスに基づく認知行動療法を研究・実践している早稲田大学の精神科医熊野宏昭先生、そしてわたしの三人がそれぞれ講義を行い、それを受けてわれわれ三人と総合研究センターの曹洞宗僧侶たちを交えて、パネルディスカッションをしたのだが、そこでの議論を聞いて思ったことの一つが、そういうことだった。

坐禅の方からはマインドフルネスに宗教的な深さがないと文句を言い、マインドフルネスの側からは坐禅には実質的な中身がないと、お互いに文句を言い合っているようなところがあるが、これはどうも不毛なことなのではないか?

仏教には世俗諦(俗諦)と勝義諦(真諦)という「二諦論」という議論がある。

世俗諦というのは言語表現される世間の真理であり、一般世人が執着する通りに承認する相対的立場、勝義諦というのは真実に対して謬りのない言葉や思慮分別によってはとらえられない真理、宗教的な絶対的立場である。

この二諦論に当てはめて、マインドフルネスは世俗諦、坐禅は勝義諦にそれぞれ属するとしてはどうだろうか?

そういう言い方で、マインドフルネスと坐禅の路線の違い、担当する次元の違いを表現してみることはできないだろうか?

もしそれが妥当なら、お互いに文句を言い合う必要はなくなるはずだ。むしろ相互に補い合って共存できるようになるだろう。


世俗諦においては、自己と世界が対立して存在していて、それぞれ意味もなくバラバラに分離され孤立して自己が、同じようにそれぞれ意味もなくバラバラに分離されて、孤立している世界を見ている。

点としての自分が、自分の周囲にある人や物を同じような無数の点として見ているようなものだ。

これは、世俗に住むわれわれが疑うことなく、普通に当たり前に身につけている世界の見え方である。

こういう常識的な世界の見え方に基づいて生きているなかで、否応なく遭遇するさまざまな具体的な悩みや苦しみを解決しようというのが、科学や技術の営みだと言える。

そこでは、この見え方自体が吟味されることはない。

仏教本来のマインドフルネスから宗教性を排除するということは、あくまでもこの世俗諦の上でそれを使うということを意味している。

だからそれが科学と非常に親和的なことも、また技術的な色彩を帯びて来ることもなにも不思議なことではないのである。

マインドフルネスが、わたしが「人生上の諸問題」と呼んでいる、具体的な個々の悩みや問題の解決に焦点を当てて、そのための最適のプログラムになるようにどんどん改良され進化していくことも、世俗諦としては当然のなりゆきだろう。

それを勝義諦の立場に立って、一方的に批判するのは的をはずしているのではないだろうか?

マインドフルネスは世俗諦として一定の役割と価値を持っていると認めるべきではないだろうか?

そして、それがより有効なものとなっていくように、むしろ勝義諦の方から手を貸していくべきことがあるのではないか。


これに対して、勝義諦としての坐禅は、自他分離に基づく世俗諦とはまったく異なる世界の見え方に立っている。

自己と世界が対立して存在しているのではなく、融合・相即しあって存在しており、そのような自己を含む世界がそれぞれ意味を持ち緊密、親密なつながりを持つ関係性、つまり縁起を基盤として見えている。

さらに、坐禅は具体的な一つ一つの悩みの根底にある漠然とした不安(わたしはそれを「存在不安」と呼んでいる)に応えるものとして、始めから宗教性を帯びている。

そういう存在不安(釈尊の「四門出遊」体験はこの存在不安を目覚めさせた事件だったということができる)を真正面から見据えるところに生まれるのが勝義の宗教(世俗的宗教は存在不安を慰安しようとする)だからである。

したがって、勝義諦が扱うのは世俗諦の「人生上の諸問題」ではなく勝義諦の「人生そのものの問題」なのだ。

坐禅をする人は、人生上の諸問題だけでなく、人生そのものの問題を持っている人のはずだ。

だから、人生上の諸問題は世俗諦のマインドフルネスで、人生そのものの問題は勝義諦の坐禅でカバーする、というように担当を分担すればいいのだ。

そして、マインドフルネスと坐禅とを対立的に考えず、方便と真実行という車の両輪として、どちらもしっかりと行じていくことだ。

マインドフルネスで日常を軽やかに生きていける人にして初めて、坐禅をほんとうに安楽の法門として坐れるのではないだろうか。

八大人覚の一つが不忘念(マインドフルネス)であることからもわかるように、行住坐臥において正念(マインドフルネス)相続できない人が仏祖の法たる坐禅を承当できるとはとても思えない。

だから、坐禅の人はマインドフルでなければならない。

 

 

 

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋