永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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吐く息を長くするトレーニングがある。
楽に息ができる姿勢でおこなう。
仰臥姿勢がいいだろう。
しばらくそのままで姿勢を落ち着け、リラックスする。
吐く息に意識を向ける。
息を出し切った後の間(ま)の終わりまで、ずーっと吐く息を心で追いかけていく。
これを数分続けていると吐く息に心が引き込まれていく。
そのまま心が引き込まれるのに任せる。
息を吐くとからだの重さが床に沈んでいく感覚が生まれる。
からだじゅうの筋肉から緊張が床へと抜けていくリラックスの感じを深く味わう。
眼も顔の筋肉もリラックスしていく。
一息一息ほんの少しずつ吐く息を長くしていく。
息を長くするといってもそれはごくわずかのことで、ことさらに力んで無理をしないことが大切だ。
くれぐれもゆっくりと自然に長くなっていくようにする。
口から息を出す方がやりやすければそれでもかまわない。
坐禅の前に行うとされる「欠気(かんき)」も、坐位ではあるがこの要領でやってみてはどうだろうか?
そのうち深くリラックスした感じがしてきたら、息をコントロールするのをすべてやめ、その後の呼吸の様子に注意を向けてみる。
それが意図的に呼吸を長くするトレーニングをした結果として自ずと生まれてくる呼吸である。

ヒント六で言われているように、吐く息を最後まできちんと終わらせていると、次の吸う息が自然に起こって、空気がからだの中に入ってくる前に、わずかな「間(ま)」があることに気づくようになる。
入息と次の出息の間にもこのような「間」はあるが、出息の後の間の方がよりはっきりとしている。
この間を見逃さないことが大切だ。
この貴重な「息の間」をきちんと呼吸に保障してあげることによって、呼吸がより「丸い」ものになっていく。
間がない呼吸は「ジグザグ」していてせわしなく、落ち着きがない。
この間に安らかにとどまるように心がけるのである。
この間に心を集中させているとそこには思考も感情もほとんど浮かんでこない。
ただシーンとした明るい静寂だけがある。
出息はこの間の中にゆっくりと消えていき、その間の中から次の入息が静かに姿を現してくる。
こういう息の生と死の様子が見えてくるようになると、この間はますます広がり始め、静寂と平安の感じが深まっていく。

普段この呼吸の間に親しむことが身についてくると、それは当然坐禅中の調息にも反映され、「間の抜けない」出息→間→入息→間→出息→...という「息の三相」がそろった深く静かな息へと結実する。
ちなみに今、「息の三相」ということを言ったが、このそれぞれの相には独特の快の感覚が伴ってい るので、それについて触れておこう。
哲学者の西田幾多郎に「斯の如き世に何を楽(たのし)んで生(いく)るか。
呼吸するも一の快楽なり」(『西田幾多郎全集』「断想第一」)という言葉がある。
この言葉を記したとされる時期、西田はさまざまな人生上の不幸に見舞われ悲痛な状況にあったと言われて いる。
「斯の如き世」という表現にはそのような背景があることを知っておく必要がある。
そのような人生の辛酸をなめている時でも、呼吸するのも快楽であると言い得る境涯はどのようにして錬られたのだろうか。
その一つの源泉は西田が打ち込んだ坐禅であったことは間違いない。

それはともかく、わたしはこの言葉を知ってから、〝呼吸の快楽〞ということがどのようなものなのかを知りたいと思うようになったのである。
今のところ次のような理解に至っている。
入息の快楽とはからだが欲している新鮮な酸素を取り入れる快楽ではなかろうか。
「空気がうまい!」というやつである。
それを強烈な形で知りたければ、我慢できるぎりぎりまで長く水の中に潜っていて、もうだめだとなってから顔を水から出してハァーと息を吸い込んでみればよい。
その時感じる快感(?)を何倍にも希釈した淡い快感が坐禅中の入息にも感じられるのだ。
出息の快楽とはリラックスする快感であろう。
先に述べた息を長くするトレーニングをやってみればこの快感がよりはっきり感じられるはずだ。
自分の中にたまっていた余計な緊張がほどけていく感覚は快感以外のなにものでもない。
そして、呼吸の間に感じる快楽とは当然、静寂と平安の快であろう。慈しみといったような宗教的な感じさえ湧いてくる時もある。
このような息の三相が提供してくれる三種の快感にアクセスできれば、心は自ずと息に沿うようになっ ていくだろう。
紙面が尽きたので今回はここまでにしておこう。

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋