永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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前回に引き続き、アレクサンダー・テクニーク教師のメレディスさんから受けた、坐禅修行者のための特別レッスンを紹介していこう。

坐禅の姿勢で坐っているわたしに向かって彼女がこう言った。

「自分にこう質問してみて。『今わたしは、どんな余計な力みや緊張を手放すことができるだろうか?』と。...バランスが精妙になって坐りが楽になればなるほど、息がますますのびやかになっていくし、いのちがますます生き生きしてきます。...環境との関係において自分が自由であるということは、『いかなることに関しても準備はしていないけれども、どのようなことに対しても応答する用意ができている』という状態でいるということです。...わたしが言っていることがわかるかしら?」 


この最後の二重カギ括弧のところ、元の英語はyou are prepared for nothing and ready for everythingである。

preparedもreadyも辞書的な意味では似通っている(どちらも「準備できている状態」のことを意味する)ので、文字通りでは「何に対しても準備していないが、すべてに対して準備で きている」という意味になるから、なんとも「禅的」な謎めいた表現である。

わたしはこう言われて、「ある特定のことに対してそれを予期して構えていると、いざそれとは違うことが起きたときに、咄嗟に対処できないということなのだろう」と理解した。

そして「次の瞬間に新しく仕事をすることのできる筋肉は、今、休んでいる筋肉だけである」という、野口体操創始者の野口三千三先生が繰り返しおっしゃっていた言葉を脳裏に浮かべた。


今、休んでいる筋肉が、多ければ多いほど、次の瞬間の動きの可能性が豊かなものになっていくのである。

メレディスさんの言ったことをそういう風に解釈してみたのである。

それから武術では、相手のどのような動きに対しても即座に対応できるような、どこにも偏り(スキ)がなく、かつ自由度がきわめて高い姿勢のことを「自然体」と呼んでいる。

この自然体のことをわたしがかつて少し習った剣術の流派(鹿島神流)では「無構(がま)え」と言っていた。

「構えが無いという構え」という意味なのだろうが、このコンセプトもメレディスさんの言ったことと通じるところがあるように思った。 


メレディスさんにこう言われたわたしは、「余計な力みや緊張はどこにあるのかな?」という問題意識 を持って、坐禅の姿勢で坐っている自分のからだの中を改めて感じようとしてみた。

そして、からだのいくつかの場所にあるように感じられた束縛や圧迫や抵抗、余計な力みを「手放そう」としてみた。

具体的には、手足の位置を微妙に変えたり、重心の位置を少し前後左右にずらしてみたり、からだをゆっくり揺らしてみたりして、もっと楽に坐ることができるように工夫してみたのである。

それと、もっとほぐしたいところがある場合、わたしがよくやるもう一つのやり方はそのほぐれて欲しいところへ息を流すというかその場所で息を吸い、吐くようなイメージを描くことなのだが、そのときもそれをやってみた。 


坐禅に関して、客観的に正しい坐り方が既に理想的モデルのように外側に存在していてそれに他律的に自分を合わせていくのではなく、自分に合った良い坐り方を「その都度、その時、その場で」自分のからだの感覚と相談しながら「探していく」というアプローチをとるべきではないかというのが現在のわたしの考えだ。

身体各部の「収まりどころ」を頭で始めから決めつけるのではなく、からだに聴いてていねいに探すのである。

だから、できるだけ「静かに、ゆっくり、ゆったり、ゆるやかに」探していく。

極端なことを言えば一回の坐禅を四〇分とするならその四〇分を全部使って、探し続けたっていいのではないか。

正身端坐を「骨組みと筋肉でねらう(内山興正老師の表現)」ことの実際というのは、カチッと決まった「一〇〇点満点の正しい坐相」を最初にモデルに合わせて作って、それを坐禅のあいだずーっと死守するというようなことではなく、「今は未知である正しい坐相」そのものをからだに聴きながら誠実に新鮮に探索していく、そういう辛抱強い探求のプロセスの全体を指すのではないだろうか。

それはあたかも、弦をはじいて響いてくる音に耳を澄ませながら、正しい調べに向かって無限に(=どこまでも)調律していくような営みと言えるのではないだろうか。

そこでは粗雑に動きすぎたり、性急に急ぎすぎたり、焦って速すぎたり、といったことは戒められなければならない。

そうすることでからだから生起してくる微細、微妙な感覚を感じ取ることができなくなるからだ。 


『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋