永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

----------------------------------------------------------



われわれは「涅槃」と聞くと人間にとって達成困難で遠大な目標のように思い込み、「修行」に関してもそういう涅槃を目指して難行苦行を耐え忍び、いつかきっとそこに到達するのだ、......というような通俗的な苦行的イメージを持つことが多い。

しかしもし、「遠い涅槃を目指して歩く長く苦しい道」といったものから「すでに涅槃の上を歩く道」へと根本的にヴィジョンを改めれば、修行の風景も当然変わってくるのだ。

修行のイメージが「苦修錬行」から「安楽の法門」へとガラリと変わる。

そして、修行の工夫も力づく、無理強い、緊張、拘束、焦燥、......の方向ではなく「力をもいれず、心をもつひ やさず」(『正法眼蔵生死』)と言われるようなナチュラルでリラックス、解放、軽安、......の方向へと真逆の転換を遂げることになる。

八正道はしばしば、「~すべし」という他律的で規範的なイメージで考えられているが、そうではない、もっと全然別な、自由で創造的な自律的クオリティをもったものとして新たに構想し直すことが可能なのである。



そのような八正道は無関係な八つの項目がばらばらに寄せ集められたものではなく、それぞれが相互に密接に連関し支え合っている一つの有機的全体として理解される必要がある。

涅槃が現実の生活としてこの地上に活き活きと現成した、そのあり方の八つの側面だと見なければならないということだ。

しかし実際には、それぞれを別々に実践することが可能な徳目を並べた単なるリスト(一覧表羅列)として理解されることがしばしば起こる。

たとえば、欧米での隆盛を背景に現在日本でも注目を浴びつつある「マインドフルネス」はこの八正道の中の正念を起源としている。

「マインドフルネス」とは「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」(日本マインドフルネス学会の定義)である。

そのような特殊な「注意のスキル」を身につけるための訓練プログラムがアメリカで考案され、そのストレス対処法としての効果が科学的に実証されたことで、 今欧米では医療、臨床の分野だけでなく教育、ビジネス、さらには軍事といった分野にまで取り入れられている(そのような状況についてはオックスフォード大学出版部から出版されたジェフ・ウィルソンMindful America: The Mutual Transformation of Buddhist Meditation and American Culture(『マインドフルなアメリカ―仏教瞑想とアメリカ文化の相互的変容』に詳しい)。

このようなマインドフルネスは特に「世俗的マインドフルネス」と呼ばれ宗教色(つまり仏教色)を全く持たないように作られている。



 八正道の正念が他の七つと切り離されて独立した単体のものとして取り出され、一般人向けにメソッド化されたものがマインドフルネスなのだ。

しかし、このマインドフルネスの場合に顕著にみられるように、八正道の各項目をバラバラに行じたのでは、もはや仏教の八正道の一つとは呼べないのではないかとわたしは考えている。

それは、八正道が八正道と呼べるためには最初の二つ、つまり正見と正思がそこにしっかりと浸透していなければならないと考えているからだ。

わたしは、正見を「正しいヴィジョン」、「正思」を「正しい意図、意思」と解釈している。

仏教でしばしば使われる「此岸‐彼岸」という河を渡る喩えで言うなら、正見というのは、此岸での生き方(「生死」)とは全くパラダイムの違う彼岸での生き方(「涅 槃」)をヴィジョンとして持つことであり、正思というのはこの此岸からあの彼岸へ渡ろうという決意をする、その意思・意図のことを言うのだ。

正語・正業・正命・正精進・正念・正定という残りの六つは、この喩えで言うなら、河を渡るために筏を作り、オールを漕いで彼岸に向かって進んでいく具体的行為に当たるだろう。

いくらヴィジョンとそれを実現しようという意図があっても、それだけでは充分ではない。

ヴィジョンと意図が実際の行動に翻訳されなければ何も変わらないからである。

さもなければヴィジョンは見果てぬ夢のままに終わってしまうだろう。

また残りの六つをいかに熱心に実行したとしても、それらが正見と正思によってきちんと方向づけをされていないなら、向こう岸に着くことなど期待できない。

筏に乗ったのはいいが空しく漂流を続けることになりかねないだろう。

上で述べた世俗的マインドフルネスが抱えている大きな問題もそこにあるのではないだろうか?つまり、正念が正見と正思から切り離された単なるメソッドになっているので、あいかわらず吾我(自我意識)のあがき・もがきの延長線上でマインドフルネスが実践される結果になっているのである。

正念は本来は此岸から彼岸へ渡るためになされるべきことであったはずなのに、此岸にとどまるためのマインドフルネスになっ ているということだ。

では、仏教における正しいヴィジョンとはどのようなものなのだろうか。

また正しい意図というものはどのようなあり方をしているのだろうか?

これは、われわれにとっても「発心正しからざれば万行空しく施す」(『学道用心集』)という重要な問題に関わる一大事である。

次回はこれをテーマに論究する。


『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋