永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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疑蓋のやっかいなところは、そういう疑いの思いはたいてい「もっともらしい」装いをしているという点だ。

教えに対する疑い、修行に対する疑い、自分に対する疑い、あるいは自分の師や先達に対する疑い、...はどれも理にかなっているように見えるし、賢明で説得力のあることのように聞こえてくるものなのだ。

だから、それを疑蓋だと見破ることはそう容易なことではない。


しかも、そういう疑念はしつこく何度も際限なくささやきかけてくる。

だから疑蓋に対する第一歩は、それが生じてきたときに、巧妙な偽装工作を見抜き、疑蓋を疑蓋としてはっきり認識するということになる。

そのためには普段から自分の思考パターンを観察してよく熟知しておく必要がある。

自分の中のどこかに何かの拍子でスイッチが入る疑蓋製の録音テープのようなものがあると承知しておくのだ。

「俺にはできない」というラベルの付いた疑蓋用テープ1、「ちゃんとできていない」というラベルの付いた疑蓋用テープ2、「これに何の意味があるんだ?」というラベルのついた疑蓋用テープ3、などなど...という具合だ。

こういうふうに扱うことができれば、「ああ、また○番の疑蓋用テープのスイッチがオンに入ったな」と気がつくし、「いつものやつだな。そのうちオフになるだろう」とそれほど囚われなくなる。


これは、内山老師が言われた「自分の物差しを横に置いておく」ということを実行する一つのやり方だ。

これはすべての五蓋に共通することだが、疑蓋を無視したり、それを抑圧するのは賢明なアプローチではない。

これまでに何度も強調してきたが、それにしっかり直面して取り組むという態度が大切だ。

今自分は、坐禅に対してどのような疑いを心に抱いているのか?

坐禅の背景にある教えに対する疑いはないか、坐禅をする自分の力量に対する疑いはないか、坐禅が目指すもの、坐禅の功徳に対する疑いはないか、そういう疑いが自分の修行にどのように影を落としているか、どのように邪魔をしているか、... そういったことを熟考してみるのである。 


また、自分の場合、どのような状況、条件、考え方が疑蓋を引き起こすのかを、その原因を振り返ってみることも必要だ。

坐禅が思い通りにうまくいかないとか、どう実行していいかわからないことがあるとか、坐禅に関して言われる教えがどうも理解できないとか、そういうことが疑蓋を引き起こしてはいないかを詳しく点検していくのだ。

こういうアプローチをとるなら、疑いが疑蓋へと成長することなく、むしろ修行や理解を深めてくれる原動力になっていくだろう。

始めに述べた有用な大疑として働いてくれるようになるのである。


さらに、こういう作業は一人で孤独に進めるものではなく、師や同輩といった善知識の輪の中でなされるべきだ。

そういう人たちとの交流の中で疑蓋の手から脱する手掛かりが得られることが多い。

わたしが修行していた安泰寺では時折、個別に呼び出しがかかって、修行僧が方丈の間で一対一で堂頭老師と面談をする機会があった。

「最近、浮かない顔をしているが、調子はどうだ?」という感じで切り出され、二〜三〇分間の話が許される。

他の人たちはどういう話をしたのかわからないが、わたしの場合は疑問に思っていることをいろいろぶつけてみたものだった。

疑蓋にとっては、当人が自分のアタマの中だけに閉じこもってムシムシと悩んでいるのが一番都合がよい状態だ。

安泰寺は広大な自然の中で自給自足の生活を目指して坐禅する修行道場であったから、嫌でもアタマの外に出て自然と直接して汗を流して作務をしなければならなかったし、仏教の勉強も奨励され、師や同輩と率直に話ができる場であったことはこの上なく幸いであったと思っている。 


六回にわたって五蓋をめぐる拙い論を展開してきた。

この辺でいったん切りあげて次回からは坐禅における呼吸の問題を考えていく予定である。

(つづく)

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋