永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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後にこの本を通読してみて、シャーロット・セルバーが鈴木俊隆老師やサンフランシスコ禅センターと深いつながりがあったことを知って、さもありなんと思った。 


片桐老師は渡米して鈴木老師のアメリカでの活動を手助けしていたのでその縁で彼女たちと知り合ったのであろう。


現在、サンフランシスコ禅センターでリーダーシップをとられている世代の人たち(わたしより年齢が上の世代)の中には、シャーロットさんから直接にセンサリー・アウェアネスの指導を受けた人が数人いて、興味深い思い出話を聞かせてもらったことがある。 


シャーロットは鈴木俊隆老師を高く評価していて、ワークショップでの話のなかで、「わたしの知るなかでは、唯一サンフランシスコ禅センターの鈴木老師のみが、姿勢を保とうとする努力なしに、本当に柔軟にただ坐るということをされています。老師の坐禅を見れば、内側の動きと静謐さのどちらをもたずさえて坐っていらっしゃる老師の在り方が皆さんにもわかるだろうと思います。


老師の一歩一歩の歩みに、あるいは動作のすべてに、老師がどれほど完全に注意をむけていらっしゃるかが見えるのです」と鈴木老師をセンサリー・アウェアネスの実物見本として讃えているのである。 


道元禅師の『永平廣録』中の法語からセンサリー・アウェアネスの方に話がそれてしまった。


しかし、これは決して「脱線」ではないので、このままもう少し続けよう。


センサリー・アウェアネスではexercise(エクササイズ)とpractice(プラクティス)をかなり厳しく区別する。


そして、センサリー・アウェアネスはエクササイズではなくプラクティスでなければならないことが強調されている。


エクササイズというのは何らかの既定の目標、あるいは基準に従って、自己を向上させようとして行う行為のことだ。つまり何かの技術や技能を身につけたり、それを向上させるためにやるのがエクササイズである。


プラクティスというのは、そのような技術の習得・向上をめざすのではなく、ただやってみて体験すること、その体験をただ自由にそして繊細に探究し、探究の中から学んでいくこと、である。


この区別を借りていうなら、坐禅の調息も、エクササイズではなくプラクティスでなければならない(宗門の用語で言うならエクササイズは習禅的、プラクティスは坐禅的だということができるだろう)。


だとするなら、「坐禅のときはいかに呼吸すべきか?」というよく聞かれる質問からして根本的な変更が迫られることになる。


そのような問いの表現の仕方には、息の責任を持つのはあくまでも「わたし」であり、何か正しい息の仕方というものがあってそれを一生懸命に練習(エクササイズ)しなければならないというニュアンスが色濃く感じられてしまうからだ。


では、どのような表現が適切なのだろうか?少なくとも「べき」という表現は避けなければならない。


「走るとき、階段を上がるとき、荷物を運ぶとき、眠っているとき、横になっているとき、...こうした全てのときにおいて呼吸は異なっています。ですからどうぞ〝正しい呼吸〞などというものがあると思わないでください」と、シャーロットは呼吸について述べるときは、呼吸の「変幻自在さ」「可変性」を常に強調する。


だから、心臓の動きに「べき」を押し付けないように、呼吸にも「べき」を押し付けてはいけないのだ。


呼吸には呼吸の望むように自由に活動させるのである。


呼吸を観察しようとか監視しようとせず、ただそれをあるがままに感じるのであるから、坐禅における調息の表現は「今呼吸をどう感じているだろうか?」、「焦りや期待を持たず、空想にもふけらないで、息を完全にそして十分に経験しているだろうか?」といった呼吸とのつながり方の質への問いかけにならざるを得ない。


そして、それは正答を想定しない純粋な問いかけを辛抱強く持続することなのである。


呼吸を「ひとつ、ふたつ、...」と数えていくことで心を静めようとする数息観は息と心を別に考えているという意味で相対的な立場に立っている(このような相対的な立場を指して小乗と呼ぶのであろう)。 


そして自分の心を静めるという目的のために息を利用するのであるから、息はあくまでも手段であって、息が自ずと調い、息から学んで息の真実相が明らかになるような息と心が親密につながる道は始めから発想されていない。


心の散乱が収まれば方法としての数息観の用はそれで済むので、それは一時的な方便でしかないから、仏祖の行う大乗調息の法ではありえない。


だからこそ「たとえ白癩野干の心をおこしても二乗自調の行をしてはいけない」という『大智度論』に拠る引用をもって強く訓戒しているのである。


呼吸から距離を置いてそれを数えたり、観察したりするのではなく、からだのすべてを鋭敏にして、今起こっている呼吸という出来事の全体に自分をただ開いていること。


その時初めて、呼吸は本来の伸びやかで自然な「本来の呼吸」へと解き放たれるだろう。


「鼻息微通」や「鼻息任通」というあり方は、呼吸の自然なプロセスにこちらから何かをさらに付け加えることによって作り出すものではなく、自分が無意識裡に何重にも呼吸に着せかけている「拘束衣」を一枚一枚そっと脱がせて本来の素の姿が現れるようにすることによって、こちらに開かれてくるものなのである。

 

次回も引き続き『永平廣録』中の調息法語を参究する。 


『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋