永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」ハートで坐る坐禅 3 】

さて、マインドとハートの問題についていろいろと書いてきたが、言いたかったことは修行の主体を、マインドからハートへと交替させなければ仏道の修行にならないということだった。

ここが修行の最大の勘所である。

ハートというのは、どのような心なのだろうか?それはアグレッシブで、目立ちたがり屋のマインドとは対照的なあり方をしていて、マインドが表舞台に出張っている間は、ひっそりと隠れている。

しかし、決して消えてなくなったりはしない。

われわれの存在の奥底にいて、微かだが確かな呼び声でわれわれがその存在に気づき、思いだし、マインドではなくハートをもとにした生き方をするよう絶えず呼びかけているのである。


われわれは、ハートを目指して修行するのではなくハートで修行するのだ。

ハートの働きが、どのようなものなのかを如実に示していると思われる、次のようなエピソードを紹介したい(このエピソードはわたしが邦訳したティク・ナット・ハン『法華経の省察』の訳者あとがきの末尾にも付記としてそえてある)。

わたしの友人は、東日本大震災の二日後に、ある企業グループから大量の救援物資の提供を受け、それを仲間たちと五台のトラックに積み分け、東北の孤立した人々に届けた。

かれらは、石巻から奇跡的に高台に避難できたものの、完全に外部から遮断されていた数十人のところに、ようやくのことでたどり着いた。

真っ先に子供たちに、用意していたチョコレートを「もう大丈夫だからね」と手渡した。

すると、五、六歳の女の子がそのチョコレートを抱きかかえるようにして「ばあちゃんにやる」と言って駆け出した。

その子の祖母は足にけがをして横たわっていたが、「お前が食べてくれないと、ばあちゃんはいただけないよ」とその子を髪をなで続けた。

わたしの友人は、その女の子の顔だけは生涯忘れないと言い、この話を自分の命が終わるまで語り継いでいくそうだ。


人間の中にあるこういう本源的な優しさ、思いやりは、まぎれもなくハートから出てくるものだ。

それは子どもだからとか、大人だからということとは関係がない。

修行云々とも関係がない。

誰もが心の奥底に持っている、つながりを求める人間の本性だと言えるだろう。

これほどドラマティックな状況でなくても、実はハートはほんの短い時間かもしれないが、なにげない毎日のそこここに顔をのぞかせているのである。


マインドが分離、分割に基づく心であるなら、ハートはつながり、統合に基づく心だ。

マインドが恐れという思考によって閉じられた心なら、ハートは愛という情緒によって開かれた心である。

それはたとえば、辛抱強さ、親切さ、愛情、慈悲、惜しみなさ、誠実さといった現れ方をする。

このエピソードの女の子や、ばあちゃんが見せたのはまさにそのようなハートのもつ諸特質にあふれた行いだった。

われわれ坐禅修行者は、自分や周りの人々における、こういうハートの静かで目立たない動きや、現れに敏感である必要がある。

大乗仏教の修行は、菩提心そのものでもあるハートに根ざしたものでなければならないからだ。


現代はマインド優勢の生き方が、ますます主流になってきているから、ともすればハートからの促しを見失いがちになっている。

坐禅をheart-centeredで行ずることができるためには、普段の生き方がheart-fulなものでなければ、heart-centeredな坐禅といっても、それは絵に描いた餅にすぎない。

ここでもう一つ紹介しておきたいのは、これを観ればマインドではないハートというものが確かにあると、理屈抜きで実感できる動画である。

ハートの特質である優しさ、繊細さ、柔らかさを実感させてくれる、新生児を沐浴させているYoutube上の美しい動画だ。

この紙面ではお見せできないので、インターネット上のURLを記しておく。

https://www.youtube.com/watch?v=OPSAgs-exfQ、ぜひ一度観ていただきたい。

もしも自分の身心が、この動画から伝わってくるような、ハートの諸特質で満たされた状態で坐れているとしたら、どのような坐禅になるのかを真面目に想像していただきたい。

そこでは、赤ちゃんを優しく沐浴させている、情愛に満ちた手のような優しいハートによって、リラックスした状態の中で姿勢・息・心が導かれている。

そこにはコントロールも葛藤も緊張もない。

しかも、為されるべきことは自ずとなされている。

そして、今起きているあらゆる経験がそのままの姿で自然に無条件に受け入れられている。

これはハートの特質である愛love、開かれopenness、包括性inclusivenessがそこにあって初めて可能になる。


尽一切と共に坐る仏行としての坐禅(「仏の行は、尽大地とおなじくおこなひ、尽衆 生ともにおこなふ。もし尽一切にあらぬは、いまだ仏の行にてはなし」『正法眼蔵唯仏与仏』)では、あらゆる事実が坐禅の一風景として、中に入って来ることが許されている。

そしてその一つ一つが、取捨されることなく繊細にそして慈愛をもって感じ取られている。

マインドの得意とするメソッドやテクニックをいくら駆使しても、そのような温かく伸び伸びした世界は開けてこない。

そのようなアプローチでは、ますますそこから遠ざかることになる。

ハート=慈・悲・喜・捨の四無量心の身現として、現成する坐禅を日々のハートフル(心豊か)な生活の中から花咲かせたいものだ。


今回の論考の結びとして、昔読んだシャーマンのドン・ファン・マトゥスの教えを紹介する。

この「戦士」の部分を「坐禅修行者」に置き換えて読んでいただきたい。

「心のある道」の原語は a path with heartだ。

「たとえどんな道であっても、じっくりと、かつ慎重に、それを見据えなくてはならないのだ。

そんなとき、どうしても戦士が自らに問いかけてみなくてはならないことがあるとすれば、それは、この道には心(ハート)があるか、というものだろう。すべての道はどれも同じである。どこかわからないところに行くだけだ。

しかしながら、その道に心(ハート)がなければ、すこしも楽しくはない。

反対に、心(ハート)のある道なら、そこには安らぎがある。しかしだからといって、戦士はその道を好きにならなくてはならないというものでもない。

ただ楽しく旅ができるというだけのことだ。

そういう道に従っているかぎり、戦士はその道とひとつになる。

戦士は心(ハート)のある道を選ぶ。どんな道であれ、心(ハート)のある道を。そして、その道に従う。」

 

 

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋