永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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坐禅に初めて取り組むとき、自分の心は自分なのだから、ちゃんとしたやる気さえあれば、本で読んだり誰かから聞いて憧れを持った「坐禅の境地」に割とすんなりたどり着けると思い込んでいる人が多 いのではないだろうか。

ところが実際はそうは問屋が卸さない。

自分が意図してそうしているつもりは ないのにどういうわけか心の中に坐禅を妨げるような力が働いてきて、自分の注意を坐禅とはなんの 関係もないどこか他所へそらしたり、とりとめもない考え事にふけらせたり、心をボンヤリと曇らせたり、いつの間にかうとうと眠らせたりして、自分の坐禅が当初思ったような坐禅にどうしてもならないという羽目に陥るのだ。

「こんなはずではなかった。自分の心は自分なのにどうして思い通りにならないんだ!」と歯がゆくなったり、落ち込んだりしたという経験をお持ちの方が多いのではないかと思う。

どうやら、坐禅をしようという意図や努力からわれわれを引き離し、意気をくじくようななにかがわたしたちの中にあるらしい。

なにはともあれこういう事実にまず素直に気づくことが大切だ。

前回も書いたように、坐禅の中で出会うこういう困難さに「あってはならない悪いこと」とか「坐禅の敵」、「自分の至らなさ」、「失敗」、...といったネガティブなレッテルを張り付けて、それに対抗して無理やりあらがおうとするのではなく、今現在坐禅の中でそういうことが確かに起きているのであるから、それをきちんと坐禅修行の大切な一部門として位置づけて、坐禅を通してそれを乗り越えていく道を探さなければならない。

そういう困難との親密な出会いを避けて、安易な迂回路を求めるのは、貴重な学びの機会を逸することになるからである。

仏教ではここで言う困難さを五つのタイプに整理して「五蓋」と呼んでいる。

注意深く五蓋を観察し、その性質やそれがどのように働くものなのかをよく学び理解するというのが、われわれの取るべきアプローチである。

問題があるときには、まず問題の存在をはっきりと自覚して受け容れ、その問題そのものの成り立ちを徹底的に知ることを通して、問題から自由になる道を発見する、というのが仏教流の問題解決法である。

「抱擁する、受け容れる」という意味のembraceという英単語がある。

まず五蓋をembraceするところから着手するというのがその肝心かなめのポイントなのだが、われわれにはそれがなかなかできない。

坐禅は脚を組み、手を結び、 口を閉じて、一切ジタバタしないでそこにあるものと共にいる姿勢だから、まさにembraceの営みそのものである。

身心を挙げて正身端坐をねらって坐っている中に、五蓋がembraceされているのだ。

さてこの五蓋の内容だが、あらためて項目だけをあげると、貪欲(とんよく)蓋・瞋恚(しんに)蓋・惛沈睡眠(こんじんすいみん)蓋・掉挙悪作(じょうこおさ)蓋・疑蓋の五つである。

貪欲蓋(むさぼり)と瞋恚蓋(いかり)はどちらも「何かをしたい」という思いの二つの形態である。

ただその方法が逆になっている。

貪欲蓋は何かを自分の手に入れたいというこちらに向かって引き寄せようとする思いであるのに対し、瞋恚蓋は何かを遠くへ押しやりたいという向こうへ遠ざけようとする思いだからである。

惛沈睡眠蓋(ねむけ)と掉挙悪作蓋(高ぶり)はどちらもエネルギーあるいは活力のレベルに関わっている。

惛沈睡眠蓋はエネルギーレベルが低すぎることであるのに対して、掉挙悪作蓋はエネルギーレベルが高すぎることである。

疑蓋はしばしば他の蓋と一緒になって身心に微妙な影響を及ぼしている。 

前回は五蓋のうちの第一番目の貪欲蓋について述べた。

そしてそれとどう取り組むかについて『大念処経』において釈尊が説いている五つのステップを簡単に説明した。

今回は、それとは少し違う角度から五蓋が現れたときにどう取り組むかをやはり五つのステップで説明したB.E.L.L.A.という一連のワーク を紹介する。

B.E.L.L.A.というのはBe・Examine・Lessen・Let go・Appreciateの頭文字を並べたものである。

Beというのは五蓋が現れたら、それをまずそこに「在らせる、存在を許す(let it be)」ということだ。

それは五蓋に屈服してしまうことでもないし、それに圧倒されて溺れるということでもない。

五蓋との間で葛藤を起こさないようにして五蓋と一緒にそこにいるということである。

先ほど言ったembraceはこのことを指している。

五蓋を自分の都合のいいように変えようという企てやたくらみなしに、ただ親しく触れているのである。

何度も言うようだが、五蓋が今、坐禅の中で立ち現れているという事実に対して落胆したり、怒ったり、自分を責めたりする必要はまったくない。

坐禅においては何が起ころうとそれはその時その時の坐禅の一風景として気づきつつ、あくまで平静に眺めていればよい。

普段ではなかなかそうはいかないが、坐蒲の上ではそれが許されるという稀有なことが可能であることをわれわれはもっとありがたく思わなければならないのではないだろうか。

五蓋をありのままの姿でそこに在らせるというのは、坐禅のバランスを失わせるような力を前にしてもそこで内的な安定と平静さを保つ工夫をするということを意味している。 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋