前回で『普勧坐禅儀』の講読が終わり、今回から『正法眼蔵 坐禅儀』を読んでいくことにします。

道元の説く坐禅についての基本的な文献としては、『正法眼蔵 坐禅儀』、『正法眼蔵 坐禅箴』、『普勧坐禅儀』が代表的なものです。

この三つの文献の関係を最初に説明しておきます。

『普勧坐禅儀』には2系統のものがあるということは前にも言いました。

いわゆる、1227年撰述の御真筆本とわれわれが読んだ流布本(るふぼん)です。御真筆本の方がはじめに書かれたものに近く、流布本はそれが何度かの推敲によって書き改めたものだと言われています。

一番大きな違いは「非思量」という言葉があるかないかという点です。

この言葉は御真筆本にはなくて、流布本にあります。

坐禅の文脈において非思量という言葉を用いるのは道元だけで、そういう意味からもこの言葉が道元の坐禅観を示す最も特徴的なものだと言ってもいいでしょう。

非思量という語句が道元禅師の著述で初めて現れるのは『正法眼蔵 坐禅箴』です。七十五巻本『正法眼蔵』の順序を見ると第十一『坐禅儀』、第十二『坐禅箴』となっていますが、制作年代から言えば、第十二『坐禅箴』の方が一年先に作られているのです。

つまり、非思量という言葉を手掛かりにすると、『坐禅箴』によって非思量の坐禅が明確化され、それに基づいて『坐禅儀』が書かれ、それに従って『普勧坐禅儀』も書き改められたと推測できるわけです。

ですからこの三つの文献はお互いに密接に連関していることになります。

では、本文を読みましょう。


参禅は坐禅なり。坐禅は静処よろし。坐蓐あつくしくべし。風煙をいらしむるこ

となかれ、雨露をもらしむることなかれ。容身の地を護持すべし。かつて金剛のう

へに坐し、盤石のうへに坐する蹤跡あり、かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。

坐処あきらかなるべし、昼夜くらからざれ。冬暖夏涼をその術とせり。


参禅というのは臨済宗では、老師のところへ一人で入室し公案の見解(けんげ)を述べる独参のことを意味しますが、曹洞宗ではここに言うように参禅というのは坐禅のことです。

参というのは、人が集まること(参集)ですので、独坐ではなくみんなで一緒に坐るということが暗に意味されています。

そのあとに書かれているのは、坐禅を行じる環境についてのお示しです。

『普勧坐禅儀』では「夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、・・・・・坐処には厚く坐物(ざもつ)を(と)敷き、上に蒲団を用ふ。」と書かれていた部分に相当しますが、この『坐禅儀』ではさらに説明が加えられています。

「容身の地を護持すべし」と言うのは重要な指摘です。

わずらいなく安心して坐禅ができる場所を確保するのがまず第一歩ということです。部屋の明るさ、室温に関しても、指示がなされています。

この一段は、坐禅に適したもろもろの条件を整えることの大切さを説いているのです。

坐禅は環境と一体のものとして考えなくてはなりません。

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