永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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何が釈尊を坐らせたのか?

それではここで、釈尊の樹下の打坐が習禅的なものをはっきりと乗り越えたところに成立したものであったことをあらためて検討してみよう。

前回も書いたように、樹下に打坐した釈尊のそばにはいかなる手引書もなかったし、指導者もいなかった。

釈尊は手元に瞑想のマニュアルを開いて、それを見ながらあらかじめ決められたやり方に従って調身・調息・調心したわけでもないし、そばにコーチのような人物がいてその人を見本にしたり、その人の出す指示に従って体や息や心を統御しようとしたのでもない。

では、なにがそのときかれの導きの糸となっていたのだろうか?



仏典に記されているのは「幼いころ涼しいジャンブ樹の木陰に坐ったことを思い出し、これこそが覚りへの道にちがいないと感じた」ということくらいである。

そのジャンブ樹の下での坐もまた、誰かに指示、指導されたわけでもなく、またどこかで学んだことを 実践するというのでもなく、まったく一人で、生まれて初めて、自発的に、自然発生的になされたきわめて単純素朴な坐であった。

そこには「何かを得るために坐る」というような目論見や当て、期待は少しも混入していなかったし、「こうやって坐らなければならない」というような縛りも枠組みもなかった。

「ただ一人、静かに坐っていたい」という自己の存在のどこか内奥からの促しに導かれて、気がついたらそのように坐っていたとしか言いようのない、作為や造作の入り込まない、まさに純粋で自由な打坐だったのである。

釈尊が「これこそが覚りへの道にちがいない」と直覚されたというのは、ジャンブ樹の下に坐った時に生まれてきた精神状態(たとえば「第一の禅=初禅」と言われる状態)や境地のようなものを思い出してそう言ったというよりも、そのときのかれをそういう自然な坐へと導いた流れ、そのプロセス全体についての何らかの洞察、自覚を得たのだと理解すべきではないかと、わたしは思っている。

つまり、坐禅が生み出す何らかの成果のようなものに期待を寄せたのではなく、そもそもそういう坐禅そのものを生み出すもっと大きなものへの眼が開かれ、それに任せてみようとしたのではなかっただろうか。



話がそれることになるかも知れないが、このことに関連して、昔読んだある写真集のことを思い出す。

それは、『林竹二・学ぶこと変わること写真集・教育の再生を求めて』(筑摩書房)という本である。

かつて宮城教育大学の学長であった林竹二先生が神戸の長田区にある定時制の湊川高校でおこなった授業の様子を小野成視氏がカメラに収めたものである。

この高校は「意識的に義務教育学校の捨て子たちを拾いあつめ、抱え込んでいる」。

このなかに、わたしにとって非常に印象に残っている写真がある。

一九七七年二月に行われた「人間について」という最初の授業の時のある生徒の写真。

一番前の席でほおづえをついて上半身を机にあずけて「こいつ何をする気やねん?!」という顔つきで林先生をぼんやり見あげている生徒。

かれは「精神薄弱の烙印を押され、日本の小・中学校で完全に芯を抜かれた在日朝鮮人青年」である。

いつも授業中は不断のおしゃべりと不規則な行動(五分から十五分間隔で授業から抜け出す)で教師たちを翻弄しているという。

そしてもう一枚の写真。

それは五月の「開国」の授業の時のかれの姿を撮ったものである。

このとき、かれの背筋はしゃんと伸びて腰が立ち、「先 生と二時間まともに向き合っていた」と記されている。

同じ人間の対照的な姿勢=態度の写真が見開きで掲載されている。

(このときの授業の記録や湊川高校の先生たちや生徒たちの感想文などの詳細については、『林竹二・教育の再生をもとめて湊川でおこったこと』(筑摩書房)を参照されたい)わたしが問題にしたいのは、この青年の姿勢の変化が、誰かにそうするように言われたからではなく、先生の言っていることをちゃんと聞こう、しっかり受けとめたい、深く学びたいという本人自身の内なる促しによって自発的に起きた自然な変化だったということだ。

普通なら、こういう姿勢の悪い生徒 (=授業態度の悪い生徒)がいると、先生は「おいお前、背筋をぴんと伸ばせ!もっとしゃんとしろ!態度が悪いぞ」と叱って、無理やり直させるだろう。

しかし、こういう他律的な強制・矯正は一時しのぎでしかないことは火を見るより明らかであろう。

先生が見ていなければすぐまた元にもどってしまう。

なによりそんなやりかたはこの湊川の生徒たちには通用しない。

林先生が言うように「これをやれば成績があがるとか、これをやっておけば損はない、立身出世に役立つとかいうようなことは、彼らにとってはほとんど無関係なんです。

そういう、いわばこれは覚えておいた方がいいぞ、これは試験に出るんだぞというようなことでは、彼らを動かすことはできない。

だから、そんな動機に訴えて勉強させようとしても無益で、現在の普通の学校教育を一貫して支配している実利主義、功利主義というものは全然通用しない相手」だからだ。

林先生は「まるごと変わる―それはふかいところで何かが解きはなたれて、一つの持続する自己運動がはじまることで、外から加わる力で変わってゆくのではない。

自分の中から次々と新しい自分を生み出して変わっていくのだ」と言っている。

そういう変化の実際がこの二枚の写真によって見事にとらえられていて、もう三十年以上前に見たものであるのに大変強く印象に残っているのだ。

だからこの文章を書いているときなぜだか知らないが思い出して、触れておかなければならない気がしたのである。

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋


 

《藤田一照 一口コメント》 

 

上のエピソードの青年は林先生の話をもっとちゃんと聞こうとしたら、自ずと背中が立ったのだ。

だから、あのスッと背筋の通った坐り姿勢は、彼の心がそのまま現れたものだった。

では釈尊の樹下の打坐のあの姿勢はどんな心の現れだったのだろうか?