永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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仏教用語の「五蓋」は英語の本ではどう訳されているかというと、たいていの場合、“five hindrances”という言葉が使われている。

hindranceというのは「妨害する人(もの)、邪魔者(物)」という意味である。

ではこの場合、何を妨害し、邪魔するのだろうか?

それは仏道という道を前へ向かって歩んでいる我々の進みを妨害し、邪魔するのである。

修行者が歩く道をふさいだり、迷わせたり、行き詰らせたりして...。

そして、その道は目覚めへの道であるから、けっきょく我々が目覚めること、ブッダ (覚者)になることを妨害し、邪魔するのが五蓋だということになる。

ここでのポイントは自らの目覚めを邪魔しているのは、自分の外側にある何かではなく、他ならぬ自分自身であるということだ。

自分を迷わせているのは外から来るものではなく当の自分自身の内にあるものなのである。

新約聖書の中にパウロの言葉として次のような記述がある。

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。...(中略)...私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。...」(『ローマ人への手紙』第7章15節~21節)。

これはキリスト教の表現であるから「私のうちに住む罪」という言い方をしているが、仏教ならそれは「無明」とか「煩悩」そしてここで問題にしている「五蓋」に相当する。

一方、仏教の側でもたとえば、シャーンティデーヴァ(A.D.650~700頃インド大乗仏教における中観派の学匠)の『入菩薩行論』の中に「苦から逃れたいという気持ちを持ちながら、苦そのものに向かって走っていく。楽(=幸せ)を望みながら、無明によって、敵のように自分の楽を破る」というパウロが言っているのと同じような趣旨の文章がある。

当人は善をしたいと真剣に思いながらも実際には悪をなし、幸せを切実に望みながらも結果的には苦しみを作り出してしまうという、自分の中にある反対方向に向かう傾向どうしの緊張、葛藤の問題を、表現方法やその解決の道筋は異なっているとしても、キリスト教と仏教が根っこのところでこのように共有しているというのは興味深い事実だ。

この連載の第20回目の論考で少し触れたが、初期の仏教経典のなかで釈尊と悪魔(マーラ)の出会いとして神話的な形でドラマティックに描かれているのは、後の時代になって出てくる「無明」や 「五蓋」というような端的で理論的なコンセプトによるものではないが、やはりこのような人間の内にある根本的な矛盾の問題に他ならない。

サンユッタ・ニカーヤという南方仏教の経典の中に収められている『悪魔相応』と名づけられた経典群によれば、降魔成道を果たした後の釈尊の前になおも悪魔がしばしば現れ、両者の間で対話が行われている。

そのことが何を意味しているかと言えば、ブッダになるということは、内にある悪魔を敵として抹殺し、自分の中から完全に削除してしまうことではなく、悪魔を自らの一部としてうちに抱きながらも、それに誘惑され、引き回され、操られないで悪魔とともに生きていくことができるあり方を確立することであった、ということである。

これは仏教の大きな特徴として注目しなければいけないことだとわたしは考えている。

悪魔を抹殺することを目指す方向へ向かうのと、悪魔との賢明な関係を築くことを探究する方向へ向かうのとでは、修行の在り方として全く違ったものになるからだ。

当然、その方向が違えば「降魔」の意味もまるで異なったものになる。

これに関連して、仏教の目標として掲げられる涅槃について「燃え盛る煩悩の炎を滅尽すること」という説明がなされることが多い。

これ は降魔ということを悪魔を抹殺することだとするのと同じ立場であると言えるだろう。

そのような「炎を吹き消すこと」という意味での涅槃なら、確かにそれはインドの土着的諸宗教の目標であったかもしれない。

しかし、それをラディカルに批判する視座から生まれてきた仏教が目指すところはそういうことではなかったのではないか。

釈尊は当時の主流の宗教が使っていた重要語を、意味の上で換骨奪胎して、仏教独特の意味で使うことが多いとわたしは理解している。

だから、この涅槃という言葉も、 実は炎を消滅させることではなく、その炎をどれほど巧みに使い、いかに上手に操るかという意味で説いていると解釈している。 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋