永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」坐禅修行のスペクトル~課題中心からハート中心へ2 】

釈尊や道元禅師が坐禅をしていた時代からは、空間的にも時間的にも、はるかに遠いところで生きているわれわれは、坐禅をする上で大きなハンディキャップのある身心をしていると言わねばならない。

この問題はいずれまた、別個に取り上げたいと思っているが、たとえば車や電車に頼って歩くことから、遠ざかってしまっているわれわれの足腰は、昔の人たちに比べれば情けないほどに弱くなっているし、テレビやコンピューターからの絶え間ない情報の刺激に、日常的にさらされているわれわれは、かつての人々よりもはるかに静かに坐ることが難しくなっているだろう。

ただでさえそのような、坐禅に対する身体的&精神的困難さを、抱えた現代の身心を生きているわれわれが、古の(いにしえ)身心が見出し伝承してきた行法である坐禅に取り組む以上、より一層の配慮と真摯な努力が必要になってくるのは当然である。

むしろ、そのようなわれわれであるからこそ余計に、本物の坐禅が古の時代からの貴重な遺産として、この上ない重要性を帯びてくるのだと思う。


幸いにしてわれわれは、「正伝の坐禅は××(三界の法、習禅、......)ではなく、○○(仏祖の法、安 楽の法門、......)である」という道元禅師の懇切な説示を受け継いでいる。

しかし、それらを金科玉条のものとしてそこで停滞するのではなく、それをヒントとして活かし、××とはそもそも何であり、○○とは何であるのか、そして××のどこがどのように問題であり、なぜ○○でなければならないのか、どのようにすれば坐禅を××ではなく○○として行じることができるのか、......といった、さらに一歩踏み込んだところでの実参実究が要求されているのではないだろうか。

『正法眼蔵』の随所に出てくる「審細に参究すべし」という策励の言葉をしっかり受けとめていかなければならない。


われわれはたいていの場合、凡夫として坐禅に出会う。

だから、坐禅の「道理を明らめ」ないで、そのまま坐禅に取り組むと、まず間違いなく○○としてではなく××として坐禅をやってしまうというのが実際のところだろう。

少なくともわたしの場合はそうだった。

自分の坐禅修行というのは、左の端に××、右の端に○○という、ラベルの付いたスペクトル(複雑な組成をもつものを成分に分解し、量や強度の順に規則的に並べたもの。例えば、可視光および紫外線・赤外線などを分光器で分解して、波長の順に並べたものは分光スペクトルと呼ばれる)の上を左端から右端の方向を目指して、横切っていくようなものだったと言えるだろう。

もちろん今もまだその途上にある。 


仏教の基本要語は此岸・彼岸、生死・涅槃、煩悩・菩提、世間・出世間、凡夫・仏、苦・楽、妄心・真心、......といったように対義語のペアになっていることが多い。

わたしはこういう対になったコンセプトが出てきた時には、たとえば此岸や煩悩といった修行において克服されるべき状態を表す言葉をスペクトルの左端に、彼岸とか菩提といった修行において目指すべき状態を表す言葉をスペクトルの右端に置いて、修行を左端から右端へ向かって、スペクトルの上をシフトしていくプロセスとして、イメージするようにしている。

ここで一言付け加えておかなければならないのは、このスペクトル上のどの一点においても、両端からの影響が及んでいるということだ。

つまり、たとえ左端にいても右端からの影響というか引きの力が及んでいるし、その逆に右端にいても左端からの力が働いているのである。


前回の論考で論じた、task-oriented(課題志向的)というあり方も、今言ったような坐禅修行のスペクト ルを考えていた時に左端に置くコンセプトとして出てきたものである。

そしてスペクトルのモデルで考えるためには、それと対になる右端に置くものが必要になってくるので、それに当たるものとして、heart-centeredというコンセプトを出してみた。

今回はここまでの前置きが長くなってしまったが、残りの紙面でこの二つのコンセプトを両端においた坐禅修行のスペクトルということを考えてみたい。

 

 

 

 

 

 『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋