永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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まずは釈尊のこのアドヴァイスを好意的に文字通りに受けとる、つまりなんとかわたしなりの坐禅の 理解に沿うような形で理解しようとしてみよう。

今のわたしにできるのは、釈尊の真意は、この第五の最終的対処法に訴えなくても、それ以前の対処法で思いを手放していけるように最大限工夫するようにとわれわれに期待していると受け取ることである。

方法としていちおう挙げてはおくが、極力それを使わないで済むように修行しなさいと言っていると解するのだ。

可能性としては考えられるが、実際には使われない方法という扱いをするわけだ。


もう一つの受け取り方は、最悪の場合、この第五の方法を使わなければならなくなっても、嫌悪、憎しみや恥、その他の自己破壊的で攻撃的な感情や思いでもって、不善な思いを「敵」にまわし、それを相手取って戦いを挑み、文字通り力づくで「打ち負かし、さえぎり、粉砕」せよという意味ではないと解するのである。文字上ではいかにも暴力的、戦闘的なイメージを喚起するような表現が採られてはいるが、「気づきで以って、その心を打ち負かし、さえぎり、粉砕する」と釈尊がはっきり言っているように、この第五の方法を実際に適用するときには、気づきのエネルギーによって不善な思いが、朝露が太陽の光を浴びて蒸発していくように、あらがうことなく静かに去っていく、といった、常識的な意味での「戦い」とは程遠い、静かで平和な展開になると理解し、そのように実行するのである。


ここで釈尊のいわゆる「降魔成道」の場面を思い出してみよう。

釈尊が樹下に打坐したとき、悪魔(マーラ)が釈尊の打坐を邪魔するために自分の軍勢を差し向けて攻撃してきたが、釈尊はそれをことごとく退けて悪魔に勝利し、成道したというエピソードである。

「悪魔、悪魔と語られるが、それは心の悪しき動きに他ならない。煩悩のわざの外ではない」という経典の文章があるように、修行を邪魔しようと悪魔が差し向けた軍勢とは実は瞑想中に湧き起ってくる「欲望や瞋(いか)りや癡(おろか)さを伴う、悪しき、不善な思い」のたとえなのである。

樹下の釈尊はどのようにしてその軍勢を「撃退」したのだろうか。

降魔成道図にあるように、釈尊はただ一人で悪魔の大軍勢に取り囲まれている。

まさに孤軍奮闘である。

われわれならそんなとき、恐怖に駆られて降参するか、あるいは「歯をくいしばって、舌を上口蓋に押し付け」力の限り戦おうとするだろうが、釈尊は果たしてどうだったのだろうか?

『ブッダチャリタ』(『仏所行讃』とも。仏教詩人のアシュヴァゴーシャ作。釈尊の誕生から死に至るまでの生涯を描いた叙事詩。仏伝文学の白眉とされる)に書かれている降魔の様子を見てみよう。

 

「...このような化け物の群れがアシュヴァッタの木を四方から取り囲み、聖者をつかまえて殺そうとして、主人の命令を待っていた。...偉大な聖者は取り乱すことなく、動揺することもなく、牛の群れの中にいるライオンのように坐っていた。...あるものは、昇っていく太陽のように燃えながら、炭火の大雨を空から降らせた。...ところが火花を散らす炭火の雨は、アシュヴァッタの木の根元に撒かれると、最高の聖者の行う慈悲のおかげで、赤い蓮の花びらの雨となった。...他のものたちは、稲妻と恐ろしい雷鳴を伴う大きな雲となって、その木に石の雨を降らせたが、美しい花の雨に変わった。...マーラの軍隊は、苦労が報いられず、喜びを失い、岩や棍棒や木を投げ捨てて、頼るべき大将を敵に倒された敵軍のように、四方に逃げ去った。...」

これが釈尊流の悪魔の軍勢の「打ち負かし方」なのである。

たとえ攻撃されても、それに対して逃げもしないし、反撃もしない、ただ静かに端然と坐っているのである。

しかしその坐りは、釈尊自身はなにもしないのに、炭火が蓮の花に変わり、石が美しい花に変わり、悪魔の軍勢の側が「苦労が報いられず、喜びを失」って勝手に逃げ去っていくという、ウソのようなことを起こす、そういう力を持った坐りだったということだ。

「不善の心を打ち負かし、さえぎり、粉砕する」のに同じような不善の心 (怒り、憎しみ、恥、罪悪感、自己非難、疑い、など)をもって「歯をくいしばって、舌を上口蓋に押 し付けて」反撃するのではなく、身心を軽安にして気づきをもって出会うと、戦いが戦いにはならないで期せずして「勝ってしまう」のである。

降魔成道図で、悪魔の軍勢たちは「歯を食いしばり...」、緊張し力んで身構えているが、釈尊はおだやかに微笑みリラックスし体軸をまっすぐに立てて坐ってい ることをあらためて確認しておこう。 


信じられないかもしれないが、そんなことが実際には起きるのである。

先日、朝日カルチャーセンター 横浜教室で、ロシア武術のシステマの若き実践者・指導者である北川貴英さんと「坐禅と呼吸―怒り の向こう側へいく」というコラボ講座を行った。

かれの『人はなぜ突然怒り出すのか?』(イースト新書)という本のなかで「仏教とシステマ、それぞれの〈怒り〉の乗り越え方」という特別対談をやったご縁からだ。

そこで北川さんは、相手にガシッと組み付かれたとき、それに対してどうこうしようと力んであがかないで、逆にリラックスして自分がより楽になれるようなより良い姿勢を探してそちらの方向に動いていくと相手が勝手に崩れてくれるというデモンストレーションをしてくれた。

力まかせに組み付いていった方は「あれれ??」という感じで倒れてしまうのだが、やっている方は倒そうという意気込みもなく涼しい顔をしているのである。

倒された方は力まかせに無理やり倒されたのではなく自分から倒れてしまった感じがするから、「なにくそっ」と腹を立てるのではなく「変だな~」と笑ってしまう。

攻撃に対して自分が静かに落ち着いて柔らかな身心の状態でいることが一番強いのだと北川さんは語っていた。


『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋