【坐禅講義25】第ニ講:正身端坐へ到るには
藤田 一照 藤田 一照
2017/08/25 07:25

【坐禅講義25】第ニ講:正身端坐へ到るには

さて、只管打坐についての最も重要で基本的なテキストである道元禅師の『普勧坐禅儀』のなかで坐禅の具体的なやり方を述べているところを見てみると、まず脚、手、胴体、頭、口、目のおさめ方について触れ、次に息のありようについて、そして最後に坐中のこころのありようについて書かれています。

これは通常、調身、調息、調心(まとめて「三調」と言います)と呼ばれているものです。坐禅を行なう場合でも、また坐禅を指導する場合でも、この順番で一つ一つ「調」をこなしていったあげくに坐禅ができあがって、あとは一定の時間にわたってそれがこわれないように、それからはずれないように、保持、維持していく努力をするというのが坐禅だとたいていは考えられています。これからしばらくは、「坐禅って本当にそういうものなのだろうか、そういう理解でいいのだろうか」、と疑問を投げかけるような話をしていきたいと思います。

坐禅のやり方の実際を言葉で説明するためには、このようにからだの各部分、呼吸、精神状態という具合に、坐禅の全体を解剖し分解して、それらをある順番で個別的に解説していくしか方法がありません。

もっとも、坐禅のやり方を説明するもう一つの方法としては、誰かが実際にやって見せて坐禅の手本を示し「さあ、わたしがやったようにやってみなさい」と言ってやらせるやり方も考えられます。これは言葉でいちいち説明しないで、手本を真似させる方法ですが、坐禅の細部や微妙なところはなかなか見ているだけでは伝わりにくいし、目に見えない坐中のこころのありようなどについては、言葉で説明しなければ外からはほとんどうかがい知ることはできません。それに手本を真似る方にしてみれば、一目で坐禅の仕方が会得できるわけではないので、「なるほど、脚はこうなってるな、手はこうなってるな……」という具合に部分部分に注目しながらそれを見よう見真似でやっていくことになります。だから結局この方法も、部分を少しずつ積み上げていくという点では、言葉で一つ一つ説明していく方法となんら変わりがありません。

坐禅を教えたり、習ったりするときには、坐禅のまるごと全体を一挙に伝える、理解するというわけにはいかず、便宜上どうしても坐禅を切り刻んで部分に分けて説明しなくてはなりません。坐禅を行じる側では、そうして与えられたたくさんの坐禅の断片をジグソーパズルのように組み立てて坐禅を自分の身心で再構成する作業をすることになります。しかし、果たして正身端坐(正しい坐相で坐ること)とはこの断片の組み立ての作業がうまくいって、ジグソーパズルの絵がきちんとできあがった状態なのでしょうか?そしてこういう部分の組み合わせというやり方でしか正身端坐に到ることができないのでしょうか? わたしはここにはいろいろ考えるべき大事な問題があると思うのです。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》
ここで述べているようなことを、このごろは「三即一の調」という言い方で話しています。つまり、調身、調息、調心という三つの調をそれぞれバラバラに単体でやって、それを積み上げて坐禅にする、というのではなく、三つを一挙に同時にするのが坐禅だということです。部分の総和が全体になるという要素還元主義的な坐禅観ではなく、部分の総和と全体は違うという全体論、ホーリスティックな坐禅観に立っているからです。坐禅が、いのちの通った生き生きしたものであるためには、やはりそれをいのちあるものとして見るべきです。では、どのようにして三つの調を一つのものとして行うことができるのかといえば、今のところの言い方では「調身の営みの中に、調息と調心が同時に含まれる」という調身に一本化された坐禅を目指すのです。その意味でも、坐禅は瞑想ではなく、正身端坐にのみ用があるような全く別物だということになります。この点については、これからも何度も触れることになるでしょう。


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【坐禅講義24】第ニ講:打坐としての坐禅②

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