永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

----------------------------------------------------------

Examineとは「吟味する・調査する」という意味の動詞である。

五蓋のさまざまな側面、それを生起させる条件、それが無くなる条件、五蓋が存在しない時はどのような状態なのか...といったことを探求するのである(これは前回述べた五つのステップの3、4、5と全く重なっているのでその部分を読み返してほしい)。

五蓋のさまざまな側面(あるいは成分)というのはたとえば、貪欲蓋の場合、身体的にはからだが前のめりになっていること、みぞおちが緊張していること、として経験されるかもしれない。

エネルギー的には何かの圧力、落ち着きのなさの奔流のようなものとして感じられるかもしれない。

感情的には、興奮とか喜びとして感じられるかもしれない。

認知的にはアタマの中で自分に語りかける信念や物語(「あれさえ手に入れば俺は幸せになれるんだ!」、「これさえ得られればすべてが解決するはずだ」)として現れているかもしれない。

動機的には行動への強い衝動とか何かに対する執着として体験されるかもしれない。

このようにして五蓋の腑分け(?)、分析をしていくのである。

 五蓋の蓋は「何かを覆い隠すもの」という意味も含んでいる。

こうした吟味を通して、それぞれの蓋が本当は何を覆い隠しているのかを洞察することへとつながっていく。

たとえば、貪欲蓋は孤独を、瞋恚蓋は満たされない欲望を、惛沈睡眠蓋は恐れを、掉挙悪作蓋は他からの承認を欲していることを、疑蓋は何かにコミットすることへの躊躇をその背後に隠しているのかもしれない。

このようにして五蓋のさらに根っこにあるものを明らかにすることは、五蓋を乗り越えていく最も有効なやり方である。

普段の生活においてはそのような深層(真相)への気づきの芽はほとんど無視されている。

坐禅を正しく行じていると人間として自然に良くなっていくというようなことを道元禅師はおっしゃっているが、それは坐禅そのものの中にこのような自己洞察の契機が豊かに備わっているからではないだろうか。

Lessenとは「減少させる」ということである。

身心をリラックスさせることは五蓋との葛藤の度合いを減少させることにつながる。

五蓋との関係で自分のどこかが緊張していることに気がついたらそこを緩めるのだ。

あるいは心を鎮めるような働きを持つものに意図的に注意を向けることも有効だろう。

五蓋の解毒剤になるようなものに集中すること、たとえば瞋恚蓋に対しては慈悲の心をもってすることでその強度を減少させることができる。

 Let goとは「去ろうとしているものを去らせること」である。

五蓋の言い分に耳を傾け、そのメッセージをちゃんと聞き届けたら、もう五蓋はそこにとどまる必要がなくなるから、五蓋の方で消えていく。

だからこちらは何も造作はいらない。

仏教では煩悩そのものの中に煩悩を乗り越えていく力があるという(集の法は滅の法なり 『律蔵 マハーヴァッガ』)。

だから、その原理に則って、こちらの力をふるって五蓋を叩き潰すのではなく、五蓋自身が納得して消えていくような道を探求するのが仏道の修行というものである。

坐禅は、「集の法は滅の法なり」ということが単なる理論ではなく実際の出来事として目撃できるような場だといえる。

だから前回わたしは坐禅のことを「煩悩の研究室」と呼んだのである。

あるいは「煩悩の実験室」と呼んでもよい。

 Appreciateとは感謝し味わうということだ。

五蓋が去ったときの状態の素晴らしさや喜び、心地よさをしっかりと体験として自分の中に落とし込むことである。

五蓋から解放された時の快感や内的活力の方が、貪欲蓋や瞋恚蓋がもたらす感覚的快感や不健全な活力感よりはるかにましだということが実感として把握できれば、われわれのこころは五蓋に束縛されるより、それから自由であることの方を自ずと望みそちらを選ぶようになっていくだろう。 

以上、きわめてざっとではあるが、五蓋への取り組み方の指針としてのB.E.L.L.A.というワークについて触れてみた

実はこれはテーラワーダ仏教の瞑想の世界で言われていることなのだが、われわれの行じている坐禅にも益するところが大きいと思われたので紹介してみたのである。

今回のテーマである 瞋恚蓋に当てはめて考えていただければと思う。

さて話を五蓋の検討にもどし、第二の瞋恚蓋を見てみよう。横山紘一『唯識仏教辞典』によると瞋恚とは「いかり。

怒る心。

他者を害しようと欲する心。

受けた不利益に耐えることなく怒る心。」である。

strike against(~にぶつかる)という意味を持つパーリ語のpatighaに相当する。

貪欲蓋も瞋恚蓋もわれわれの注意を過剰に引きつける対象を持っていることが共通している。

われわれの欲望あるいは敵意・害意が向かう対象のことである。

そういう対象に心がすっかり占領されてしまうので、自分の注意を何に向けるかを選ぶという自由を失ってしまう。

貪りや怒りの対象に心が固着してしまい、かたくなになってしまって他のことが手につかなくなるのだ。

誰しもそういう状態になったことが一度や二度はあるはずなので、その時のことを思い出してもらいたい。

その対象は何であったか?

またどのような感じがしたか?

こういう時、瞋恚蓋の場合でいえば、自分が敵意を向けている相手・対象から注意を移して、その瞋恚 そのものに注意を向け変えようと積極的に思う気持ちが大事になってくる。

果たしてそれができるかどうかの問題ではなく、そうしようと思うかどうか、ということだ。

それがなければ瞋恚蓋に取り組むワークがそもそも始まらないからだ。

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋