永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」appamadaに坐る坐禅3 】

「酔いから覚める」というのはもちろんメタファーである。

ブッダ、つまり酔いから覚めた者から見ると、われわれはあたかも酔っぱらったような状態で、生きていることになる。

その状態で何をしても、たとえ本人がいくら一生懸命に修行しているつもりでも、それ自体が酔いの表現でしかない。

それどころか、そのような修行がますます酔いを深めることになることすらあり得るのだ。

だから、酔いから覚める方向に間違いなく向かうような修行でなくてはならないぞ、というのが釈尊の言い残したかったことではないだろうか。

オウム真理教事件は、一生懸命になって酔っぱらう修行をするとああいうことになるという、そのあまりにも悲惨な実例だった。

われわれが酒を飲む場面を想像してみよう。

酒を飲んでいて「ああ、ちょっと酔っぱらっちゃったな」という自覚があるうちはまだいい。

その程度だとまだ「自分が酒を飲んでいる」。

ところが、もっと酔ってくると、「酒が自分を飲み」だし、さらに酔いが深まってくると「酒が酒を飲む」ようになる。

そうなるともはや自分が酔っぱらっているということが分からなくなる。

「おい、もうだいぶ酔っているから、そのへんでやめとけよ」と友達に言われても、「なに~、バカなことを言うんじゃないよ!俺は酔ってなんかいないぞ~。まだまだだいじょうぶだ~。もっと飲むぞ~」という状態になってしまう。

オウム真理教事件で言うなら、完全に洗脳された状態になってしまうのである。

さっき言った「自分がなにをしているのかわからない」という酩酊状態で、これがまさにpamadaということなのだ。

appamadaはその反対の状態だから、酔っぱらいのメタファーで言うなら、それは酔いからはっきり覚めた素面の状態を指している。

だから「酔いから覚める」というのが仏道修行の基本的方向性でなければならない。

それが釈尊の樹下の打坐で起きたことだった。

pamadaからappamadaへとあり方がシフトしたのである。

だから、釈尊にとってはappamadaという言葉はこの上なく重要な意味合いをもっている。

たとえば南伝相応部経典の中に、コーサラ国の王パセーナディが釈尊に「現世の利益と未来の利益と二つの利益を兼ね備えたものがありましょうか」と尋ねる場面が記されている。

これに答えて釈尊は「大王よ、現世の利益と未来の利益をあわせ持つ一つのこととは、appamadaである。たとえば、いかなる動物の足跡も、すべて象の足跡の中に入る。象の足跡は、その大なることにおいて第一であると言われる。

それと同じように、大王よ、現世の利益も未来の利益もおなじくこの一法(appamada)の中に収まるのである」と説いている。

また、釈尊の言葉を集めたとされる『ダンマパダ』の第二章のテーマは「はげみ」であるが、それは他ならぬappamadaのことである(中村元訳『真理のことば感興のことば』岩波文庫参照)。

そこには「つとめ励む(appamada)のは不死の境地である。怠りなまける(pamada)のは死の境地である。つとめ励む人は死ぬことがない。怠りなまける人々は、死者のごとくである」と極めて直截的な言葉で、appamadaの重要性が説かれている。

仏教において、appamadaが中心的な意味を持つコンセプトであるということは間違いない。

そしてそれは単に「怠けずに一生懸命に修行する」という修行の量の問題だけではなく、さらに「どこまでも覚め、覚めていく素面の方向に向かって」という修行の質、方向性も問題にしているものとして、より深いレベルで参究する必要がある。

坐禅に引きつけていうならば、瑩山禅師の『坐禅用心記』には「坐禅は自己の正体なり」とあるが、この「自己の正体」を見失うような方向性で、我執我欲が坐禅しているようなものであれば、それはいかに一生懸命で「つとめ励んで」いても、それ自体がpamadaの現れであって、「appamadaに坐る坐禅」とは到底言えないのである。

それでは坐禅が坐禅でなくなり、子供がおもちゃを欲しがるように、個人的な悟りを開くことを追い求める、他との競り合い、個人的技量・力量の獲得ゲームになってしまう。

今の世は、人間的思いですべてを片付けようとしている時代である。

だれもがいわば「人間的思いという酒」を飲みすぎて酔っ払い、そのことに自覚すらなくなっている。

それを飲まずには生きていけないかのように思い込んでいる「人間的思いのアルコール依存症状態」で生きているとすらいえるかもしれない。

そこからさまざまな混乱状態が否応なく引き起こされ続けている。

「自分がなにをしているかわからない」pamada状態の人間たちが一生懸命になにかをしているのだから、当たり前といえば当たり前だ。

人間的思いが、引き起こした混乱が人間的思いによって片付くわけがない。

われわれの坐禅修行というのは、人間的思いの飲みすぎによって酩酊した、pamadaの状態から素面にもどり、のぼせを下げることによって、人間的アタマが引き起こした問題を、人間的アタマ以上の坐禅から見渡してみることでなければならない。

appamadaに坐る坐禅というのは、今のような一億総pamada時代において、極めて重要な使命を担っていると言える。

 

 

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋