永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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わたしが今年になって始めた有料メールマガジン『仏道探究ラボ』(月2回配信)のなかには、「インタヴュー・ウィズ・一照」という連載コラムがある。

「身近に転がっている仏道にかかわる様々なテーマについてインタヴュー形式で、わかりやすく語っていきます。」

ということで、ここ数か月は「生きる範型(テンプレート)としての八正道」というテーマでずっと話をしている。

われわれが人生をナヴィゲート(舵取り)していく上での指針として、八正道をどう活かしていくことができるのかという視点に立って、一歩でも突っ込んだ話をしようと毎回取り組んでいる。

この「八正道」という教えは仏教以外の宗教には見ることのできない、その意味で仏教独自のオリジ ナルの教義であると言えるだろう(それに対して「輪廻」や「業」の教義は仏教以外のインドの宗教、たとえばジャイナ教やバラモン教にも認められる。

わたしがとりわけ興味を持つのは、仏教も含めたインドの宗教一般で共通して語られている教義・実践よりも、四聖諦、八正道、縁起、空、止観、坐禅といった仏教だけが説いている独自の教義・実践の方なのだ。そういう観点から、仏教のオリジナルの教えや行法を選び出す作業を目下自分なりにやっているところである)。

八正道は、釈尊が菩提樹のもとで成道されてからまもないころ、かつての苦行仲間五人に向かっておこなった最初の説法(「初転法輪」)の中で、自らが見出したと宣言した「中道」の内実、そしてその説法の主要な部分をなしている四聖諦の中の道諦の具体的内容として説かれている。

また亡くなる直前の最後の説法の中でもこの八正道が説かれている。

そのことから見ても、八正道が仏教の修行道の一貫したバックボーンとしてどれほど重要な意味を持っているかがうかがわれるだろう。

日本仏教のなかでは、八正道についてはどちらかというとさらっとしか触れられていない(あるいはまったく問題にしない)傾向があるが、それはどういう事情からなのだろうか?

大乗仏教の立場からは、四聖諦や八正道といった初期仏教の教義はすでに批判的に乗り越えられたものとして、取り上げるに値しないものとされているからだろうか?

このメルマガでのインタヴューでは八正道の全体像やそれぞれの項目についていろいろ語っているのだが、わたしはそこで従来の教科書的な解説とはかなり違った私的解釈を展開している。

普通の解釈では、八正道、つまり道諦は滅諦(涅槃)に至るための手段方法であり、「涅槃に至る道」であるとされている。

しかし、こういう解釈では八正道はあくまでも涅槃という理想(目的地)に到達するための方法(道)であるから、どうしても目的と手段の二つ、曹洞宗的な言い方で言うならば「証」と「修」という二つが別個に立てられることになり、八正道と涅槃が別々のものになっている。

道元禅師が言うように「もし、凡流のおもひのごとく、修証を両段にあらわせば、おのおのあひ覚知すべき なり。......修証はひとつにあらずとおもへる、すなわち外道の見なり。仏法には修証これ一等なり」(『弁道話』)であるとすれば、そのような理解は実は仏法的ではないことになる。

初期仏教の教え自体としてはそのようなものであったのかもしれないが、わたしは四聖諦や八正道といった初期仏教の根幹をなす教義をすべて道元禅的に読み直していけないものかと思っているのである。

それがはたしてどのくらいの程度まで可能なものなのか、その可能性を探ってみたいのだ。

初期仏教と道元禅に一貫した流れを見い出し、「仏仏祖祖正伝」の実際をより具体的に理解できたらと思っている。 

さてそこで、従来のように「八正道は涅槃に至る道である」と理解するのではなく、いわば逆転させて「涅槃が具体的に展開したものが八正道である」と理解してみる。

つまり、道の果てに涅槃が待っているのではなく、八正道という道を歩く一歩一歩がすでに涅槃の姿であるという見方だ。

別の言い方をすれば、涅槃が生活のあらゆる局面で体現されているのが八正道であるということだ。

修行は証へ向かう道なのではなく、証から生じる道である、という全く異なる理解に立つのである。 

ベトナム人禅僧のティク・ナット・ハン師はそれを「涅槃への道はない。涅槃が道である (There is no way to Nirvana. Nirvana is the way)」と表現している。

道はthe way to Nirvana(涅槃への道)なのではなくthe way of Nirvana(涅槃の道)であると理解しなければならないとかれはいたるところで強調している。

これが非二元(nonduality)に立つ大乗仏教の際立った特徴なのだ。

こういう理解は「修証一等(ティク・ナット・ハン師の言い方を借りれば『証へ向かう修はない。証が修である』ということ)」の教えに始めからなじんでいるわれわれには別に目新しいものでもなんでもないが、他の仏教 伝統を学んでいる修行者たちや世間一般の人たちにはきっと驚くようなこととして耳に響くだろう。

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋