永平寺から毎月発行されている時報『傘松(さんしょう)』の中にある一照さんの連載記事、『「只管打坐」雑考』に一口コメントをつけてお届けします。

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【「只管打坐」「自分がやっている感」が少なくなるような坐禅の工夫 1 】

前回の論考の最後に「『自分がやっている感』が少なくなるような方向での(坐禅の)工夫」ということに触れたので、今回はその工夫についてさらに少し詳しく、今現在の時点で考えていることを述べてみたい。 

坐禅をする時に、自分の力で強引に姿勢や呼吸、そして心を調えようとする態度(道元禅師の用語では「強為(ごうい)」)はいったいどこが問題なのだろうか?

それは、本人にそういう自覚的な意図がたとえないとしても、「わたし」と「わたしの身心」を切り離したうえで、「わたし」が「わたしの身心」をあたかもいのちのない死んだ物体を扱うような動かし方になってしまうからだ。

しかし、ほんとうのところは、「生きた身心」の働きによってこそ「わたしという意識」が幻影のように生成しているというのが、仏教の立場であるから、強為によって坐禅をしようとするのは、仏教的には本末転倒(『般若心経』の言葉で言えば「顚倒夢想」)だということになる。

「わたし」という主観と「わたしの身心」という客観が別々にあるかのように思いなすことは、われわれの日常的意識の大前提になっているが、そのような二元的な認識の枠組みは、そもそもの始めから仏教的ではないのである。


日常的意識の土俵の上で、坐禅をしようとすることの問題については、『正法眼蔵聴書抄(御抄)』にある「坐禅は人間界にあるべき事ならず、坐禅の時は、坐禅の我にてこそあれ、日来の我にてはなき也」という一文が参考になるだろう。

さらに、そういう理論的な面での問題にのみとどまらず、それは実践的な面にも問題を引き起こす。

「わたしという意識」(上記引用文の「日来の我」)がいのちの働きの表れである身心を、調身・調息・調心の名のもとに他律的に一方的に強引に動かそうとすれば、身心の側ではそれに対して抵抗を生じ、緊張し固まるから、このようなやり方では調の営みが、言うことを聞かせようとするわたしと、それに抵抗する身心の間の闘争のような様相を呈して来ざるを得ない。

抵抗に打ち勝つために、ますますこちら側の強為の力を強めることが必要となり、それに対してさらに身心からの抵抗が増し、...という果てしのない悪循環に陥ってしまうのである。


わたしが、坐禅について語るときにしばしば引用する、「力をも入れず、心をもつひやさずして、生死を離れ、仏となる」(『正法眼蔵生死』)という道元禅師の言葉は、そういう悪循環を生みださないような、強為的なアプローチとはまったく異なる坐禅へのアプローチを、探究すべきことを示唆している。

自分が思ったように坐禅がうまくいかないとき、われわれはしばしば自分の努力が足りないと思い込んで、今やっている努力の度合いをさらに増そうとする。

努力の仕方そのものを再吟味するのではなく、同じような努力の仕方のまま「さらに力を入れ、心をもっとついやして、頑張ろう!」とするのである。

しかし、そのような「やみくもな」努力をいったん放棄して、自分が何をやりすぎているかに気づいて、それを止めていくという逆転の発想をしてみる必要があるのではないだろうか?

それは、今の自分の努力の量の多少ではなく、その努力の仕方そのものを根本的に見直していくということを意味している。


「力ずくで一生懸命に」を目指すのではなく「丁寧にゆっくりと」へと努力の路線をラディカルに転換するのである。

うまく事が運ばないと気づいた時には、むきになって「より多くの力を使う」のではなく、それとはまったく異なる「時間を使う(ていねいにゆっくり)」というやり方に切り替えてみるチャンスなのだ。

そのようにして、これまでの自分の坐禅への取り組み方そのものを抜本的に見直し、変えてみることによって、その結果として、もしかしたら坐禅の質が変わって来るかも知れない。

少なくともわたしの場合は、自分の坐禅に大きな変化が起きたことは確かだ。

はるかに坐りやすくなったし、からだが軽やかになったし、いろいろな意味でこころがより自由になったという実感があった。


「(姿勢は、呼吸は、精神状態は)こうあるべきだ」という意識を強く持って、そのあるべき状態が実現するように、自分ががんばってすべてを管理し、コントロールしなければならない、というような、堅苦しくて難儀な坐禅であったのが、「これがよいのか、わるいのか、まだわからないけど、それはいちおう脇に置いておいて、今(自分の姿勢、呼吸、精神状態が)実際はどうなっているのかを丁寧に見ていこう」という意識で、ただ観察し、実験していくようになったので、坐禅がもっと気楽で愉しいものになっていったのだった。

正しいことをしようとして、あまりにも構えすぎると、逆に身も心も固まってしまい、身心が不自由になってしまうのだ。

あらかじめ決め込んだ「正しい坐禅」を自分に押しつけようとするのではなく、今の自分の坐禅の実際に興味を持って、丁寧に観察して行くことで、結果的に正しい坐禅に、近づいて行ける道筋があることがだんだんわかってきた。

 

 

 

 

 

『傘松』、『「只管打坐」雑考』より一部抜粋