(前回の講義)

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 今回は最後の部分「坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汚(ふぜんな)の修証(しゅしょう)なり。」を読みます。

坐禅は習禅、つまり禅定と呼ばれる特定の心理状態になるために、一定のやり方が定まっている瞑想技法に習熟する営み、ではないというのは道元禅師が特に強調している大切なポイントです。

習禅は「”in order to”mind(〜するためにマインド)」とでも呼べるような目的と手段が、二つに分かれている心がそのベースになっています。

坐禅は悟り(証)を得るための手段ではなく、悟りそのものの表現であるというのが道元禅師の立場です。

今からあらためて、未来の目的達成のために現在において苦労するという枠組みの中にはないので、

「大安楽の法門」なのです。

現在に安住する安らかさが、坐禅の直下にあるからです。

このような坐禅は、煩悩から出発する有所得心の汚れとは、無縁の無所得無所悟の純粋無垢な修行であり、それがそのまま仏心の実証にもなっているので、「不染汚の修証」言われるのです。

もうご存知かと思いますが、4月末をもってこのオンライン上のお寺磨塼寺を閉じることになりました。

奇しくも、このビデオ講座の『正法眼蔵 坐禅儀』もちょうど終わりまで話すことができました。

このようなビデオ講座は、今後別な形で発信していく予定ですので、ご期待ください。

これまで試聴してくださった会員の皆様に、心からのお礼を申し上げます。

今後とも、坐禅を中心とした己事究明と慈悲行のご精進の道をお元気で歩まれるようお祈り申し上げます。

 

 



●今回の動画配信