【仏教とわたし1】前野隆司さん(慶應義塾大学教授)|「悟りと受動意識仮説と幸福学」
藤田 一照 藤田 一照
2017/08/18 07:29

【仏教とわたし1】前野隆司さん(慶應義塾大学教授)|「悟りと受動意識仮説と幸福学」

今回は、新シリーズ記事の投稿です。2017年3月までに配信していた旧メールマガジン「藤田一照『仏道探究ラボ』」のコンテンツ「仏教とわたし」を、新たに形を変えて一ヶ月に一度お届けしていきます。

「仏教とわたし」とは、様々な分野で活動中のゲストをお迎えし、仏教との関係性や、仏教に対する考え、思い等をお伺いした記事です。今回磨塼寺では、以前配信した記事に新たにぼくが一口コメントをつけて配信します。

以前読んだ方も、今回から読まれる方も、皆さん新たにお楽しみください。読まれた方は、コメントにてぜひ感想を聞かせてください。

第一回目は、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科(慶應SDM)の前野隆司さんです。

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「悟りと受動意識仮説と幸福学」
前野隆司さん(慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科(慶應SDM))


「私は脳科学で悟りを理解し、悟りに達した!」と豪語(笑)するようにな ってから10年以上の時が経ちます。最近は、幸福学という学問をやっています。こちらも、「仏教=幸福学だ!」と豪語しています(笑)。

そんなわけで、私の最近の研究活動は、実は仏教に極めて近いところにあります。そこで、今日はこれらについて述べたいと思います。詳しくは、脳科 学と悟りの件については『脳はなぜ「心」を作ったのか―「心」の謎を解く受動意識仮説』(ちくま文庫、2010年)を、幸福学については『幸せのメカニズム―実践・幸福学入門』(講談社現代新書、2013年)をご覧頂ければ幸いです。

さて、まず、脳科学での悟りの理解。カリフォルニア大学のリベット博士が 行なった有名な実験によると、自由意思は自由ではないことが知られています。私たちの意識にのぼる自由意思が「指を曲げよう」と思う0.35秒くらい前に、脳の運動野の神経は指を曲げるための準備を始めているというのです。「指を曲げよう」という自由な意思が、指を曲げるという自分の動作を始めているように感じるのに、どうもそれは始まりではなく、“始めたと感じている”に過ぎないと考えなければ説明がつかないというのです。

仏教では、お釈迦様が言ったことは無我なのか非我なのかという議論があります。「私たちの心は無い(無我)」なのか「私たちの心ではない(非我) 」なのか。リベットの実験から考えると、「指を曲げようという自由意思を感じるその瞬間に、本当は、自由意思というものは無い(なぜならその前に 無意識下の意思決定が行なわれているから)」(無我)と考えられますし、「指を曲げるということを始めたのは自由意思ではない(なにしろ始めたの は無意識下の運動野の神経発火の方だから)」(非我)とも考えられます。

いずれにせよ、指を曲げたい、おいしいものを食べたい、お金を儲けたい、有名になりたい、社会のために尽くしたい、などという欲望の実施を決定する自由意思は、本当はないということなのです。 “心は幻想である”と言い換えることもできます。幻想とは、逃げ水のように、ありありとあるように見 えるけれども、近づいてみると実際にはないもの。私たちの心も、それが創り出している欲望も、自由意思も、あるようで実は無我・非我なのです。

なあんだ、自分って、ないんだ(あるいは、幻想なんだ)と気づいたとき、私の心は軽くなりました。すべての執着がなくなったことを論理として納得した気がしました。実際、ないのです。全ては幻想なのですから、執着している自分も無いのです。執着しているのは自分ではないのです。そして、「 あ、これって、悟りじゃん」と思ったという次第です。何の迷いもない。悩みもない。なにしろ、それらはみんな幻想なのですから。過去の忘れられぬ 挫折や失敗も、未来の懸案事項も、関係ない。みんな、心が作った幻想なのですから。「お前は既に死んでいる」です。心なんてない。幻想なんですから。最初から死んでいて、生まれてくるという幻想を感じ、生きているという幻想を感じ、そして死んで行くだけ。最初から死んでいたものが死んでいくのだから、悲しくも寂しくもない。 

だったら、今ここにあたかも生きているかのように感じているこの自分という幻想を、生き生きと精一杯生きようよ。今が人生最後の一瞬だと思って、一瞬、一瞬を、思いっきり生きようよ。そう思いました。そこで、はじめたのが幸福学です。所詮は幻想のこの人生。どうせ幻想なのなら、思いっきり幸せに生きた方がいい。世界中の70億人が、みんな、生き生きと、精一杯 に、だれもが幸せに生きた方がいい。では、どうすれば幸せになれるのかを、明らかにすべきではないか。そう思って幸福学の研究と実践を始めました。

なぜ、仏教=幸福学なのか。仏とは、悟りに至った人のこと。悟りとは、悩みもわだかまりも幻想と理解した幸せの境地。つまり、仏教とは、幸せの教え。現代流にいうと、幸福学です。日本人1500人に対して幸せの心的要因 についてアンケートした結果を因子分析して、幸せの4因子というのを求めました。「自己実現と成長」「つながりと感謝」「前向きと楽観」「独立と マイペース」です。これらを高めることによって、幸福度が高まります。皆様も、この4つの因子を高めて幸せになって頂ければと思います。そして、その極限が悟りなのだと思うのです。

私は、仏教とは思想・学問であると考えています。誤解を恐れずにいうと、私が行ってきた受動意識仮説や幸福学は、仏教の新しい形といってもいいの ではないかと思っています。仏教界から出てきた藤田一照さんのような新しい動きとも連携しながら、新しい思想・学問を構築し、人間理解と幸せに貢献できればと思っています。人々が、ざわめく心の幻想性をよく理解し、平静な心を研ぎすまし、皆が皆の幸せを心から願うような世界。そんな世界の実現を目指して、小さな一歩を歩んでゆきたいと思っています。 


《藤田一照 一口コメント》

先日、山形県出羽三山での2泊3日の山伏修行で前野隆司先生とご一緒に、ひたすら山の中を歩き、滝に打たれました。また、9月2,3日に開催される鎌倉でのZEN2.0という集まりでもご一緒する予定です。こうして、いろいろな機会にご一緒できるご縁をとてもありがたく思っています。ロボットに関わる研究をしていた工学者が、日本における幸福学の牽引者になったというのは、非常に興味深いことです。いつかそのあたりのことも詳しくお伺いしてみたいと思っています。

そのような方が、このエッセイで仏教は幸福学だと「豪語」されています。仏教で幸福という言葉にあたるのは、解脱とか涅槃というコンセプトだと思います。なるほど確かに、仏教は苦しみの此岸から涅槃の彼岸へと渡る筋道と方法を説いているのですから、その意味では確かに幸福学といってもいいと思います。ただそこで、幸福という言葉に根本的な質的変化が起きているということを見逃してはいけません。彼岸での幸福つまり涅槃は此岸でイメージしている幸福とは全く違うということです。前野先生は自我は幻想だと書いていますが、普通の意味での幸福は自我が幸福になろうとしている、自我の幸福だということに眼を向ける必要があります。前野先生の幸福学が無我の幸福学かどうか、これもいつかじっくり聞いてみたいテーマです。

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前野隆司... 1962年山口市生まれ。1984年東京工業大学工学部機械工学科 卒業、1986年東京工業大学理工学研究科機械工学専攻修士課程修了、同年 キヤノン株式会社入社、1993年博士(工学)学位取得(東京工業大学)、 1995年慶應義塾大学専任講師、同大学助教授を経て現在教授.

この間、1990年-1992年カリフォルニア大学バークレー校Visiting Industrial Fellow、2001年ハーバード大学Visiting Scholar.著書に、『幸せの日本論』(角 川新書,2015年)、『システム×デザイン思考で世界を変える』(日経BP 、2014年)、『幸せのメカニズム』(講談社現代新書,2013年)、『思 考脳力のつくり方』(角川書店,2010年)、『脳の中の「私」はなぜ見つ からないのか』(技術評論社,2007年)、『脳はなぜ「心」を作ったのか 』(筑摩書房,2004年)など多数。日本機械学会賞(論文)(1999年)、 日本ロボット学会論文賞(2003年)、日本バーチャルリアリティー学会論 文賞(2007年)などを受賞。専門は、システムデザイン・マネジメント学 、地域活性化、教育工学、幸福学、システム思想など。

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