【坐禅講義24】第ニ講:打坐としての坐禅②
藤田 一照 藤田 一照
2017/08/18 07:23

【坐禅講義24】第ニ講:打坐としての坐禅②

内山興正老師はこのような打坐としての坐禅を敷衍して、「坐禅するとは、居眠りせぬよう、考え事にならぬように、そして生き生きと覚めて骨組みと筋肉で正しい坐相をねらい、その姿勢に全てをまかせきってゆくことである」と言っています(内山興正『坐禅の意味と実際-生命の実物を生きる』大法輪閣)。序講で紹介した大智禅師の坐禅の定義と並んで、これもまた見事な坐禅の定義だと思います。

わたしは自分が坐禅するときも、また坐禅を指導しているときも、いつもこの定義を指針にしてきました。特にアメリカで有縁の人たちと坐禅をしているときには、この定義がおおいに役に立ちました。わたしが十八年近く住持をしていた小さな禅堂はアメリカの東海岸にあり、そのあたリは北米でもとりわけ仏教への関心が高いところでした。それを反映して、その地域には様々な仏教伝統の流れを組む大小いろいろの仏教センターやグループが形成されていてそれぞれ活発な活動を展開していました。ですから、わたしのいた禅堂に坐禅に来る人たちのなかには、禅だけではなく南方仏教、チベット仏教の勉強や修行をかなりの程度まで経験した人たちがいました。そういう人たちはわたしが指導している坐禅、つまり打坐とかれらがやってきた仏教的瞑想行の違いについてしばしば質問してきました。指導するわたしの方も、かれらがどんな修行をしてきたのかをいろいろ聞いて、坐禅がそれらと混同されてしまわないように気をつけなければなりませんでした。つまり、打坐と言われる坐禅と他の瞑想行はどのように違うのかを明確にしながら、坐禅とは何かを端的に表現することが求められたのです。そういう作業を行なう上で、内山老師のこの坐禅の定義がどれくらい助けになったかわかりません。

ここで言われている「骨組みと筋肉で正しい坐相をねらう」というような表現は他の伝統には全く見られないからです。かれらからはよく「坐ってそれから何をすればいいのか?」とか「こころを何に向ければいいのか?」、「坐り方についてなんでそんなにこまごましたことをいうのか?」という質問を受けました。かれらにすれば、それまでやってきた行法とはだいぶ感触が違うということだったのでしょう。

この内山老師の定義のおかげで坐禅がまさに打坐であり、かれらのよく知っている瞑想、たとえば数息観やアーナーパーナサティ、ヴィパッサナー、ビジュアリゼーション(こころの中に特定の対象を思い浮かべてそれに集中する)瞑想、マントラ(真言)瞑想などとは全く違ったものだということが伝わりやすいのです。もっとも、なかには坐禅が自分のイメージしていたものとはあまりにも違っていたという理由でそれっきり来なくなる人もいました。かれらはもっと効率的に、「瞑想状態」(それがどんな状態かは人によって違っていたでしょうが……)に入れる方法を探していたようです。坐禅では、どんな状態であれ、特別な状態に「入る」というようなことを最初から目指していないのだ、酔っ払っている人が素面に戻るように、「なんともない」自然な状態に落ち着くだけだとわたしが言うと、「なーんだ、そんなものだったのか」とがっかりした様子をしていましたから。

藤田一照著「現代坐禅講義」より一部抜粋


《藤田一照 一口コメント》
「坐禅は無量無辺、おまえ一人の物足りようの思いを満足させるような矮小なものであるはずがない」というのが澤木興道老師の言い方でした。老師は若いころ、丘宗潭(おかそうたん)老師の侍者をしていて次のような場面を目撃したそうです。その体験が、この言葉の原点にあるのではないかと僕は思っています。

ある雲水が丘老師の部屋に独参に行き、蚊の鳴くような声で「一大事をお示し願います」と問うた所、師は雲水をジロリと一瞥し「ウーム、誰の一大事か」とぶっきらぼうに受けたといいます。丘老師は般若の面のような容貌魁偉の人だったそうで、その師に睨みつけられたのですからたまりません。「ヘェイ、私のでございます………」「ナニイ、貴様のか、貴様一人ぐらい、どうでもいいじゃないか。ウフフフ………」とものすごい形相で笑ったと言います。その薄気味悪い笑い声が今でも忘れられないと沢木老師が述懐しています。横で見ていた澤木老師ですら、肝っ玉が縮み上がったのでしょう。

丘老師のこの応対を無慈悲、不親切と受け取るのはたぶん的外れでしょう。「自分一人の一大事ぐらいどうでもいい」というのが本当の一大事なのですから、それをくどくど説明せずに、いきなりそのものずばりを示したのですから大慈悲、大親切と言うべきです。もっとも、この雲水さんに真意が通じたかどうかは定かではありませんが…。いかにも禅らしい、教育方法だと思います。

ともすると、坐禅を矮小化してしまいがちなわれわれが記憶しておくべきエピソードの一つです。

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【坐禅講義23】第一講:打坐としての坐禅

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